浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

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和睦

延暦寺での籠城は2ヶ月ほど続きましたが、この間に織田氏を取り巻く状況は悪化の一途をたどり、信長は朝廷と足利義昭を動かして和平工作を行います。

朝倉義景もまた、冬になって雪が降り始めると越前と近江の交通が遮断されてしまうため、撤退を考えるようになっていました。

このため、12月になると和睦が成立し、ともに軍を引いて包囲戦を終わらせています。

長政と義景は信長を苦しめ、重臣や弟は討ち取ったものの、領地を拡大させることはできず、結果的には戦力を消耗しただけで終わりました。

一方で信長は各地に敵を迎える情勢となり、こちらも苦しい展開が続いていくことになります。

こうしてこの戦いは痛み分けとなっています。

この1570年に姉川、南近江と続けざまに大軍を動員した影響で、戦費や物資、人員を大いに消耗してしまい、この後の浅井・朝倉氏の動きは鈍くなっていきます。

一方で信長は包囲されながらも毎年盛んに軍を動かし続け、このあたりの持久力の違いが、両陣営の大きな差となって現れていくことになります。

延暦寺の焼き討ち

翌1571年になると、信長は前年に苦しめられた延暦寺を隙間なく包囲し、これを焼き討ちにして僧と僧兵たちを全滅させます。

この時に信長は朝早くから攻撃を開始し、夜の闇にまぎれて逃げられないようにするという、徹底した措置を取りました。

延暦寺は伝教大師・最澄が開いた伝統のある寺院でしたが、この頃には僧兵をたくわえて軍事に介入し、蓄財に励むなどして堕落していました。

このため、信長の焼き討ちに対し、さほど世間からの非難は行われなかったようです。

ともあれ、こうして長政は協力相手を失ってしまうことになりました。

北近江で再び対峙する

さらに1572年の7月には、信長が大軍を率いて再び北近江に襲来します。

長政はこれを受け、再び義景の援軍とともに出陣しました。

この時は信長の方がかなり軍勢の数が勝っていたことから、長政は決戦を挑むことができず、浅井氏の北近江における影響力が低下していきます。

このことが、やがて浅井氏の家臣の寝返りを誘発していくことになります。

信長は浅井氏の本拠・小谷城を囲むようにして砦や防塁を築き、包囲体制を構築していきました。

このために長政は出兵するのも難しくなり、打つ手がなくなっていきます。

朝倉軍も先の消耗のために戦いには消極的で、砦に篭ったままで出陣しませんでした。

信長の挑戦にも応じず、手をこまねいたままで、いたずらに滞陣が続いていきます。

義昭の変心と、武田信玄の参戦

この頃には将軍になった足利義昭と信長の関係が悪化しており、義昭は信長の排除を企むようになっていました。

このため、長政らの包囲網を構築した勢力に働きかけを行い、さらに甲斐(山梨県)の武田信玄に上洛を促し、信長を攻撃するようにと要請しています。

こうして西と北に加え、東にも新たに信長の脅威となる勢力が登場しました。

信玄は歴戦の名将であり、その軍団は戦国最強とも呼ばれていたことから、信長にとってはこの時が最も危機的な状況だったと言えます。

信玄はそれまで結んでいた信長との同盟を打ち切り、1572年の9月から家康の領地である遠江(静岡県西部)や三河に侵入を開始します。

信玄は久政と長政に書状を送って「これからは間を置かずに信長を攻撃していく」と伝え、包囲網に加わったことを宣言します。

これによって追い詰められていた浅井氏に、滅亡回避への希望がもたらされました。

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