刀根坂の戦いと、朝倉氏の滅亡
崩れかけた朝倉軍は刀根坂で織田軍を迎え討ち、激しい戦いになりました。
信長はこの時に朝倉軍を圧倒し、3000もの敵兵と、何人もの有力な武将を討ち取って大勝利を上げました。
これによって朝倉軍は壊滅し、義景はわずかな供に守られて撤退します。
信長は手をゆるめず、そのまま朝倉氏の本拠・一乗谷まで追撃してこれを占領しました。
義景は落ち延びる途中で一族の朝倉景鏡(かげあきら)に裏切られて襲撃され、やがて自害して果てています。
そして信長の元には、残った嫡男や愛妾が送られました。
元より関係が悪く、しかもこの数年、散々苦しめられた朝倉氏を存続させるつもりはなかったようで、信長は義景の嫡男と愛妾、そして生き残った家臣たちを皆殺しにしています。
こうして長政は同盟相手を失い、自身も追いつめられました。
小谷城の戦い
この頃に小谷城の側にある山本山城の城主・阿閉貞征(あつじさだまさ)が寝返り、織田軍を内部に引き入れました。
これによって小谷城は孤立し、ついに浅井氏の滅亡が目前に迫る情勢となります。
信玄も義景もおらず、石山本願寺は近くには勢力をもっておらず、完全に孤立無援になってしまいます。
結果からすると、金ヶ崎で信長を裏切ったのは大きな失敗だったと言えます。
信長は木下秀吉らを通して何度か降伏勧告をしますが、長政はこれを拒絶し、最後の抗戦を試みます。
この時に小谷城では長政と久政がそれぞれに拠点を守っていましたが、夜間に秀吉の部隊の強襲を受け、その間をつなぐ京極丸を攻め落とされてしまい、分断されます。
やがて久政が篭もる小丸への総攻撃が行われ、追いつめられた久政は自害しました。
本丸に篭もる長政の軍勢500はまだしばらく持ちこたえますが、もはや抗戦のしようもないのは明らかでした。
このため、長政は嫡男の万福丸を城外に逃し、妻のお市の方と三人の娘たちを織田軍に引き渡します。
最期
最後の措置を取り終えると、長政は重臣の赤尾清綱の屋敷に入り、そこで自害しました。
この時に赤尾清綱と弟の浅井政元が、長政に殉じて自害しています。
こうして北近江で栄えた浅井氏は、わずか3代で滅亡しました。
長政の享年は28でした。
その後
信長は朝倉氏と同様、浅井氏も断絶するために万福丸を捜索させます。
そして捕縛すると、関ヶ原で磔にして処刑しました。
さらに長政と久政の首を京で晒し者にするという、厳しい措置を取っています。
翌年には長政と久政、義景の首を漆で固め、その上に金箔を貼って飾り立て、宴会の肴として家臣たちに見せ、みなと喜んで酒を飲んでいた、という逸話もあります。
長政は同盟を裏切って攻撃をしかけ、信長の弟や重臣を討ち取るなどしましたので、買った恨みや憎しみは大きなものだったのでしょう。
父と家臣に迫られた末の決断でしたが、そのつけは非常に大きなものとなって返ってきました。
信長のこの数年の苦境は長政の裏切りから始まり、信玄の参戦によって、あやうく織田氏が滅亡しかねない状況にまで追い込まれました。
しかし最終的には逆転し、浅井・朝倉氏を滅ぼしたことで信長の勢力はさらに拡大し、以後は天下統一に向けて邁進していくことになります。
長政は信長の勢力を停滞はさせたものの、勝利することはできませんでした。
包囲網というものは大抵の場合、そういった終わり方をするようです。
秀吉の出世
浅井氏の滅亡後、北近江の地は信長から木下秀吉に与えられ、彼は大名の身分に出世しています。
秀吉はその後も出世を重ね、やがて信長の後を継いで天下人になり、関白という最高位の官位に就任しました。
そして豊臣秀吉と名のることになりますが、後にこの秀吉と長政の娘が、深い関わりを持つことになります。
【次のページに続く▼】