浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

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信長包囲網

こうして長政と朝倉氏は追いつめられつつありましたが、信長は別の方面にも敵を抱えており、北近江の情勢だけには集中できませんでした。

このことが、長政を生きながらえさせることになります。

やがて摂津(大阪)で信長に対して挙兵した本願寺顕如が、長政に同盟を申し入れて来ました。

渡りに船といった感じで長政はこれを受け入れ、北と西から信長の領地を包囲する体制を作り上げます。

さらに京都近くの延暦寺もこの同盟に加わり、反信長陣営はその勢力を増していきました。

このあたりの外交的な動きは、石山本願寺が主導していたようです。

信長が摂津で三好三人衆や石山本願寺と戦っている隙をつき、長政は再び兵を集め、義景と共にその背後を脅かすべく出陣します。

南近江で信長の弟を討ち取る

信長はこの頃、南近江に宇佐山城を築いて防衛の拠点としていました。

宇佐山城主・森可成(よしなり)は浅井・朝倉軍が南近江を抜けて京都に向かおうとしているのを知ると、これを防ぐために出陣して街道を封鎖します。

この時の長政と義景の軍勢は3万という大軍でしたが、これに立ちふさがった可成の軍勢は、わずか500人程度のものでした。

しかし可成に伏兵を用いられて浅井・朝倉軍は翻弄され、緒戦では敗北しています。

さらに近くにいた信長の弟・信治や青地茂綱ら2000の援軍が加わり、守備側の兵力が増大していきました。

一方で、長政には延暦寺の僧兵らが援軍として加わり、寡兵である可成勢を挟み撃ちにできる体制が整います。

10倍以上の戦力差があった上に左右から攻めかかったことで、やがて織田軍の殲滅に成功します。

長政はこの時、可成や信治を討ち取って勝利を得ました。

こうして信長と長政は、互いに弟と重臣を殺し合ったことになりました。

縁戚関係にあるにも関わらず、ともに一族を失わせており、悲壮な戦いになっていたことがうかがえます。

長政はさらに宇佐山城に攻撃をしかけますが、可成の遺臣たちに激しく抵抗されてこれを果たせず、あきらめて撤退しています。

京都への進軍と信長の反転

長政と義景はそのまま進軍し、9月21日には山科まで進み、京都に入る一歩手前の地点に到着しました。

しかしその翌日には信長が長政の動向を知り、摂津の戦線を放棄して京都に帰還し始めます。

これを聞き及んだ長政と義景は軍を引き、延暦寺に籠城しました。

延暦寺は寺院であると同時に軍事拠点でもあり、数万の大軍が籠城できるほどの設備を備えていました。

南近江に入った信長は延暦寺を包囲しますが、長政らは戦いに応じず、山上に篭ったため、決戦は行われませんでした。

信長は延暦寺に中立を保つようにと要請しましたが、延暦寺はこれを断っており、織田軍団は周囲に釘付けにされることになります。

長政らが延暦寺で粘っている間に、甲賀に潜伏していた六角義賢が一向一揆と共に挙兵し、美濃と京都の交通を遮断します。

さらに伊勢で一向一揆が挙兵し、信長の弟・信興が守る城を攻め落としました。

こうして各地で反抗する勢力が蜂起し、信長は窮地に追い込まれていきます。

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