直江兼続は奸臣か、それとも名宰相か?

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北条征伐に参加し、庄内地方の支配を固める

1590年には、関東を支配する北条氏の征伐が行われ、兼続は北条方の松山城や八王子城を攻略するなどして活躍しました。

そして新たに上杉氏の領地となった庄内地方の支配を安定させるため、大宝寺城を修築し、一揆を討伐するなどの活動も行っています。

そして佐渡で金山や銀山が発見されると、秀吉からその管理を任され、兼続は奉行を任命して発掘を進めさせました。

こうして豊臣政権下で実績を積み重ね、秀吉の信頼を得たことから、景勝は大老に任じられ、政権の中枢に参画するようになります。

上杉氏は景勝と兼続の指導によって順調に発展し、確固たる立場を獲得することに成功しています。

会津120万石に移封される

しかし、1598年になると、上杉氏は会津への移封を秀吉から命じられ、これによって情勢が変化していきました。

会津にはもともと、優れた武人として知られる蒲生氏郷が入っており、東北の諸大名や、関東の徳川家康の動向を監視する重大な役割を、秀吉から与えられていました。

しかし蒲生氏郷が1595年に若くして病死すると、後継者の蒲生秀行はまだ幼く、この重責を担えないと判断されます。

このため、秀吉は蒲生氏を他の土地に移した上で、景勝を会津に移動させ、東北と関東の監視役を担わせることにしました。

この際に上杉氏の領地は120万石にまで加増されますが、先祖代々、支配してきた越後から切り離され、さらに会津と庄内が分断され、陸奥に多くの飛び地を抱えることになってしまうなど、手放しで喜べる状況ではありませんでした。

この国替えによって、上杉氏は出羽の最上義光、陸奥の伊達政宗、そして関東の徳川家康に挟まれる形勢となり、2年後に発生する関ヶ原の戦いにおいて、厳しい状況に置かれることになります。

領地の再編を進める

この移封時に兼続は米沢城主となり、6万石を直轄し、30万石の与力を預かり、上杉氏を主導する立場を引き続き担っています。

一方、中央では上杉氏が会津に移動した直後に秀吉が死去し、豊臣家を継承した秀頼がまだ幼かったことから、大老たちの間で権力争いが発生しました。

景勝もまた大老の地位にありましたが、新しい領地の統治を確立するための仕事に忙殺され、これにはほとんど関与できていません。

これまで会津は若松城を中心として統治されていましたが、ここでは手狭になると判断した景勝は、新たに神指城(こうざしじょう)の築城を開始し、兼続が総奉行を担当しています。

神指城は会津盆地の中央に建築される予定となっており、広大な領地を統治する上で、中心の城にするのに適していました。

この他にも、新たに将兵たちを雇い入れ、軍備の増強を図っています。

上杉氏に謀反の疑いがかけられる

兼続らは神指城を築城するにあたって、豊臣政権を仕切るようになった徳川家康から、事前に許可を得ていました。

しかし上杉氏に代わって越後に入った堀秀治や、出奔していた藤田信吉らが、上杉氏に謀反の疑いがあると家康に訴え出ます。

神指城の築城や、軍備の強化などの上杉氏の動きが、謀反を企んでいることの証拠だとされました。

これを受け、他の大老を潰して政権を簒奪することをもくろんでいた家康は、景勝をとがめ、上洛して弁明するようにと要求してきました。

兼続は許可を得ていたにも関わらず、家康が詰問して来たことに憤り、彼を挑発する書状を送りつけます。

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