直江兼続は奸臣か、それとも名宰相か?

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直江状

この時に兼続が家康に送った書状は「直江状」と呼ばれており、その名を後世にもよく知られています。

内容は概ね、以下のようなものでした。

「家康は讒言をする者たちに耳を貸しており、このような状況では、景勝が上洛することはできない。」

「都会では茶器などの人をたぶらかす道具にお金をかけるのかもしれないが、田舎では鉄砲や弓矢の支度をするのが当然であり、気にする方がおかしい。」

そして、「言いがかりをつけるのであれば、兵を起こして天下を取ることも辞さない」などと、家康を挑発する文言を書き連ねています。

この直江状には、後世になってから改ざんされたという説があり、そのままの内容を兼続が書いたわけではないようです。

しかし、書状を受け取った家康が激怒したという話が残されており、兼続が家康に対し、挑戦状を送りつけたのは確かなようです。

この後も、豊臣政権の奉行たちのとりなしがあって、上洛するや否やの交渉が持たれますが、讒言の内容が真実であるかどうかの追求がなされなかったため、上洛しても無実の罪に落とされる可能性が高いと判断し、景勝は上洛を拒否する旨を通告します。

これによって、家康による上杉討伐が実施されることになりました。

迎撃作戦と、石田三成の挙兵

この事態を受け、神指城の築城は中止され、上杉氏は討伐軍を迎撃するための対応を始めます。

南から家康が攻め上がってきて、北では最上義光や伊達政宗と敵対する状況になりましたので、周囲が敵だらけとなっており、戦いが始まる前から上杉氏は苦境に置かれていました。

この時に兼続は、友人である石田三成と連絡を取り、家康が大坂を去って関東に向かったら、その隙をついて三成が畿内で挙兵し、東西から家康を挟み撃ちにする、という計画を立てていた、と言われています。

これが事実であれば、兼続は天下を動かす戦いを計画し、それに挑んだのだということになります。

兼続は120万石の大名家の宰相という立場でしたので、この挑戦は、必ずしも無謀だったとは言えないでしょう。

ただしここで問題となるのは、三成や兼続と、家康との将器の差でした。

西軍が立ち上がり、家康が江戸に撤退する

家康は下野(栃木県)の小山にまで進軍してきますが、その頃には大坂で三成が挙兵し、大老の毛利輝元が総大将となって、家康を討伐するための西軍が立ち上がっていました。

この知らせを受けた家康は上杉討伐をとりやめ、江戸に軍を戻し、福島正則らの諸侯を尾張(愛知県)に向かわせ、西軍の進撃を食い止めようとします。

こうした情勢の変化を受け、上杉氏は西軍と連絡を取り、家康を打倒するための作戦を実行に移します。

最上と伊達を降し、関東に攻め入る計画を立てる

この時に景勝と兼続は、敵対する最上氏と伊達氏を降し、彼らの戦力を取り込んだ上で、関東に攻め込んで家康を攻撃する、という作戦を立てます。

これに成功すれば、北の上杉氏と、西の毛利氏らの戦力で家康の軍勢を挟撃することができますので、妥当な戦略案であったと言えます。

それに、最上氏や伊達氏は家康と通じており、上杉氏にはっきりと敵対する姿勢を見せていましたので、これを放置して、先に家康と戦うのは困難な情勢でもありました。

こうした事情から、兼続は北に向かって進軍を開始します。

最上領に攻め込む

この時の東北の各大名の勢力は、上杉が120万石で、伊達が58万石、最上が24万石となっています。

このため、両者を降して傘下に取り込もうという戦略は決して無謀ではなく、十分な実現性を持っていました。

兼続はまず、戦力的に劣っており、庄内と会津を分断していた最上義光の攻略を優先することにし、2万5千の大軍を率いて最上領へと侵攻しました。

また、庄内地方からも別働隊の3千が出動しています。

これに対し、最上義光の総兵力は7千ほどであり、上杉軍は4倍もの戦力を出羽に投入していたことになります。

兼続はいずれ戦乱が発生することを予期して、前田利益(慶次郎の名で知られる人物)などの武将を臨時に雇い入れており、戦力を増強していました。

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