本多氏との関係を構築する
また、兼続は1609年に、娘婿として本多正信の次男・政重を迎える措置を取っています。
本多正信は徳川家康から友と呼ばれたほどの信頼を受けた人物であり、この本多氏と縁戚関係になったことで、10万石の軍役が免除される、という恩恵が上杉氏にもたらされました。
家康はこうした兼続の動きによって、上杉氏がおとなしく徳川幕府の支配体制に入っていく姿勢を見せたことに、安堵したと思われます。
しかし、兼続の娘はまもなく亡くなってしまったため、代わりに弟の大国実頼(おおくに さねより)の娘を、政重と再度結婚させます。
大国実頼は娘を差し出したものの、兼続が見せた、徳川幕府への従属を深める姿勢を嫌ったようで、本多政重を迎えるための使者を殺害して出奔する、という事件を起こしています。
この事件を見るに、上杉氏の内部には本多政重を直江家に迎えることに、反対する動きもあったようで、結局のところ、本多政重は1611年に上杉氏を離れ、かつて仕えていたことのある、加賀の前田家に帰参しました。
この時に、本多政重とともに、上杉家や直江家の家臣の一部が前田家に移籍しており、余剰が多い家臣の一部を、前田家に引き取ってもらったのではないか、と推測されています。
その死
以後の兼続は、景勝とともに越前高田城の天下普請に参加したり、大坂の陣に参戦して武功を立てるなど、徳川氏への忠実な働きを見せています。
一度敗れた以上は、徳川氏に従って家の存続を計るべきである、というのが景勝と兼続の一貫した方針になっていたようです。
兼続は1619年に景勝とともに再度上洛しますが、しばらくして病に倒れ、江戸藩邸で死去しています。
享年は60でした。
この時に景勝は「この嘆きはたとえようもない」と述べ、兼続の死を惜しんでいます。
また、幕府から銀50枚の見舞金が下賜されており、この頃には、幕府からもその死を惜しまれる存在になっていたことがうかがえます。
直江家は断絶する
兼続には景明という唯一の男子がいましたが、父に先立って1615年に病死しています。
そして本多政重と養子縁組を解消し、その後は他に養子を取らなかったため、直江家は断絶してしまいました。
これは、上杉氏が関ヶ原の敗戦によって減封されたことに責任を感じ、直江家の知行を返上することで、少しでも藩財政を助けようとしたための措置だと言われています。
兼続なりの、自らの失敗に対するけじめの付け方だったのでしょう。
その後の米沢藩の藩政は、未亡人となったお船が影響力を保持しており、源頼朝の死後に鎌倉幕府の実権を握った、北条政子になぞらえられています。
お船の死後は、兼続の側近であった平林正興が権力を継承し、兼続の派閥はしばらくの間、藩政への影響力を持ち続けています。
奸臣か、名宰相か?
こうして見てきた通り、兼続は内政に大きな治績を残しており、越後も米沢も、どちらも発展させた優れた人物であったと言えます。
一方で、家康の打倒をもくろんだ関ヶ原の戦いでは敗北し、上杉氏を大きく衰退させてしまってもいます。
このことから、徳川氏に逆らい、主君に道を誤らせた奸臣として非難を浴びたこともあるようですが、9代目の米沢藩主で、名君として知られる上杉鷹山が兼続の政策を手本として藩政改革に成功したことから、評価が改まっていきました。
兼続は内政・軍事・外交と多方面に事跡を残していますが、いくつかの戦いでの記録を見るに、武将としても優れてはいるのですが、戦術・戦略的な失敗も多く、その最も得意とする所は、内政や統治にあったのだと思われます。
教育面での事跡もあり、それゆえに、平和な時代であるほど評価されやすくなる、という傾向を持っているのでしょう。
景勝のために尽くした忠臣でありながらも、上杉氏自体は衰退させてしまったことで、兼続のたどった生涯が複雑なものとなり、評価も錯綜する結果を招いています。
兼続への評価は、見る人によって、どこを重視するかによって異なってくると思われます。
ただ、兼続には主君・景勝に対する悪意や害意は一切なく、奸臣と呼ぶのはいささか過剰な形容であると言えます。
もしも平和な時代に大名の家老として生まれていれば、ひとえに名宰相としての評判を獲得したのは、間違いのないところであろうと思われます。