直江兼続は奸臣か、それとも名宰相か?

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新潟を奪還して新発田重家を追い込み、謀反を収束させる

新発田重家の謀反が長引いたのは、彼が新潟の港を支配しており、軍需物資を補給し、交易の利権によって軍事費も補充できる状況にあったことも影響していました。

このため、兼続は武将の藤田信吉に命じて新潟城を奪還させ、これによって新発田勢は補給が困難となります。

さらに1586年に、景勝は中央を制した豊臣秀吉に臣従し、西から脅かされる可能性を排除したことで、東の新発田重家の討伐に集中できるようになります。

こうして状況を整えた上で、1587年に景勝と兼続は、1万の大軍を率いて新発田城を包囲し、降伏を勧告しました。

しかし新発田重家はこれを受け入れず、支城を攻め落とされて追い詰められると、城を打って出て、上杉軍の目の前で自害をして果てました。

こうして景勝と兼続は7年という長い歳月を費やして、ようやく越後の再統一に成功しています。

それだけ謙信の死後の混乱によって、上杉氏の勢力が衰えていたということになりますが、この頃には、ようやく立て直って来ていたようです。

この時期を通し、景勝と兼続は、謙信の後継者となるにふさわしい実力を身につけるための、経験を積んだのだと言えるでしょう。

上洛して豊臣姓と山城守の官位を得る

越後が平穏になったことで、兼続は景勝に従って上洛し、天下人になった豊臣秀吉に謁見しています。

そして豊臣姓を下賜され、私称していた山城守の官位を正式に与えられました。

こうして豊臣氏との関係を深め、上杉氏の立場を安定させる一方で、兼続は内乱によって疲弊した越後の立て直しに取りかかります。

越後を発展させる

御館の乱の発生から、新発田重家の乱の終結までには、おおよそ10年を要しており、このために越後はひどく疲弊した状態に置かれていました。

兼続はこの立て直しのために、様々な施策を行っています。

当時の新潟平野は、川筋が定まらない水利の悪い土地柄でしたが、兼続は中ノ口川を開削することによって、この問題を解決します。

そうして環境を整えた上で、農民たちに開墾を奨励することで、新潟平野の農業生産力を高めました。

これが現代においても、新潟が米所として機能するための基盤となっています。

特産品の栽培によって大きな利益を得る

また、兼続は魚沼郡に自生していたカラムシという植物の栽培を奨励し、青苧(あおそ)という繊維素材を増産させました。

大規模に養蚕が行われる以前の時代には、この青苧は高級素材であり、身分の高い人物が身につける衣服に用いられていました。

このために都市部では大きな需要があり、兼続は御用商人の助言を受けて青苧を京に輸出し、大きな収益を得ることで、越後の経済を立て直しています。

こうした兼続の施策が成功したことで、越後は謙信の時代に匹敵するほどの繁栄を取り戻しました。

兼続が後世からも高く評価されるのは、こうした内政手腕によるところが大きいようです。

江戸時代の名君として知られる上杉鷹山は、兼続の政策を参考にして、疲弊していた領地の立て直しを図ったと言われています。

豊臣政権下で領地を拡大する

秀吉への臣従後、上杉氏は佐渡と出羽国(山形県)を切り取り勝手とする、というお墨付きを与えられました。

これは越中の領地を前田利長に譲っていたため、その代替地を与えるための、秀吉の措置でした。

これを受け、1588年に勇将・本庄繁長が出羽に出陣し、最上義光の軍勢に勝利して、出羽の庄内三郡を支配下に置いています。

さらにその翌年には、景勝と兼続が佐渡に出兵し、領主の本間氏を降してこれを占拠しました。

こうして越後と佐渡、出羽にまたがる91万石の領土を形成し、豊臣政権下における上杉氏の支配領域が、ひとまず確定します。

同規模の領地を持つのは前田氏や毛利氏など、ごく一部の大大名に限られており、上杉氏は秀吉から厚遇を受けていたことになります。

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