大きく減封される
上杉軍の撤退後、最上軍は庄内地方に侵攻してこれを占拠し、徳川家康からその領有を認められ、一躍57万石の大大名へとのし上がりました。
伊達軍もまた会津へ侵攻してきますが、こちらでは上杉軍が強い抵抗を見せ、白石城2万石の損失で収まっています。
しかし上杉氏は家康から会津を没収され、出羽米沢30万石へと減封されてしまいました。
1601年に、景勝と兼続が上洛して家康に謝罪したことで、上杉氏の存続は許されたものの、最上氏や伊達氏よりも格下の存在となり、東北で最大規模の大名から、一諸侯の立場に転落しています。
こうして上杉氏を大きく衰退させてしまったことから、兼続を、主君に道を誤らせた者として、厳しく評価するむきもあります。
兼続と景勝の、家康打倒という目標は失敗に終わり、以後は天下の支配者となった徳川幕府に恭順し、忠勤に励むことになります。
こうして上杉氏は大きな挫折を経験しましたが、景勝から兼続への信頼は生涯変わることがなく、以後も兼続は上杉氏を主導し続けます。
兼続は、生きて自らの失敗の責任を負うことになったのだとも言えます。
家臣を解雇せず
こうして所領が4分の1になってしまったことから、家臣団の雇用を維持するのが難しくなりましたが、兼続はこれを一切解雇しない、という方針を取りました。
このために米沢藩は、慢性的に藩財政の赤字に苦しむことになります。
家臣の中には、「余剰な人員は解雇すべきだ」と主張する者もいましたが、兼続は「こういう困難な時には、人材ほど大切なものはない。一同協力して上杉氏の復興を計るべきである」と述べ、旧来の家臣には、一人も去ることを許しませんでした。
大量に解雇すれば路頭に迷う者も出てくるでしょうから、兼続は自分の失敗によってそのような事態が発生することを、気に病んだのかもしれません。
こうして上杉氏は家臣たちの雇用を維持しましたが、領地が4分の1になってしまったため、家臣たちの暮らし向きは厳しいものとなり、これを改善するため、兼続は栗や柿、ウコギなどの食用の木を家に植えさせ、少しでも生活の足しにするための措置をとりました。
米沢藩の開墾を進める
兼続は単に木を植えさせただけでなく、米沢の開墾事業も推し進めていきます。
米沢城下には最上川が流れていますが、そこに長大な堤防を築き、川の氾濫を鎮めるための措置を取りました。
この堤防は「直江石堤」と呼ばれ、3キロメートルに渡り、巨石を積み並べて堤防を構築しています。
こうして治水事業を行ってから開墾を奨励したことで、後に米沢藩は30万石の表高に対し、51万石の実収入を得るほどに発展しています。
こうして兼続は、越後でも見せた優れた内政手腕によって、米沢を発展させることにも成功しました。
漢籍の収集・保護に務め、藩校の基礎を築く
兼続は蔵書家としても著名で、特に漢籍に親しんでいました。
上杉氏は秀吉が実施した文禄・慶長の役にも参加しているのですが、兼続はこの時に医学書を書写させ、朝鮮半島に渡った際には、戦火から漢籍を守って持ち帰らせるなど、文化保護にも務めています。
それ以外にも歴史書や仏典なども収集しており、それらの蔵書を元に、米沢に禅林文庫という学問所を開きました。
これは後に興譲館という米沢藩の藩校となり、現代においても米沢興譲館高等学校として存続しています。
このように、兼続は文化についても理解が深く、米沢の教育環境の整備にも事跡を残しています。
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