最上軍の激しい抵抗を受ける
上杉軍はいくつかの進軍路に分散して進軍し、最上方の防衛拠点に攻めかかります。
しかし、500人の兵が籠もる畑谷城を攻め落とすのに、1000人の死傷者を出すなど、最上軍の強い抵抗を受けます。
4千の別働隊が上山城を攻めた際には、伏兵の挟撃を受けて数百の首級を奪われており、この部隊はついに本隊に合流できないまま、この戦役を終えています。
最上義光もまた優れた武将であり、彼に率いられていた最上軍の戦意も、旺盛であったようです。
長谷堂城を包囲する
兼続は本隊の1万8千を指揮し、畑谷城を突破した後、長谷堂城を包囲しました。
この城は最上氏の本拠である山形城の一歩手前にあり、ここを攻め落とせばいよいよ最上義光を追い込むことになります。
長谷堂城を守るのは1千ほどの兵で、18倍もの戦力差がありました。
上杉軍の攻撃が始まったのは9月15日で、兼続は大軍にものを言わせて力攻めを行います。
しかし守将の志村光安が巧みな采配を見せ、このために攻撃を防がれてしまいます。
さらにその夜には、最上方の鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)が率いる200名の決死隊に、上杉軍の陣地が襲撃され、250名が討ち取られるという大きな損害を出しています。
この見事な夜襲に対し、兼続は「鮭延の武勇は、信玄・謙信にも覚えなし」と最大級の賛辞を送っています。
伊達が援軍に現れる
兼続は最上氏と伊達氏を従えて家康に戦いを挑む、という戦略を立てていたため、大軍の姿を見せつけて動揺させ、あまり大きな損害を与えずに降伏を促そう、という意図を持っていました。
このため、長谷堂城の包囲は長引き、9月21日には伊達政宗が派遣した、3千の部隊が兼続の陣地の近くに姿を現し、牽制してくるようになりました。
伊達と最上は決して良好な関係ではありませんでしたが、この時に政宗の母が山形城に居住していたため、これを守るために政宗は援軍を派遣しています。
伊達の援軍がやってきたことを知った最上義光は、自ら山形城から出陣し、こちらも長谷堂城の付近にまで進軍してきます。
こうして長谷堂城の付近で決戦が行われる情勢となり、兼続は再び総攻撃を命じますが、城兵の堅い守りに阻まれ、武将の上泉泰綱が討ち取られるなどの損害を受け、撃退されました。
このあたりの結果を見るに、兼続は城攻めはさほど得意ではなかったのかもしれません。
関ヶ原の敗戦の報が届く
この総攻撃が行われた9月29日に、関ヶ原において三成が家康に敗れた、という情報が兼続の元にもたらされます。
兼続が1千の兵が籠もる城を落とすのに手こずっている間に、家康はわずか1日で数万の敵軍を撃破し、関ヶ原の戦いの勝者たる立場を手に入れたのです。
家康は兼続や三成よりも、はるかに将帥としての実力が上回っており、兼続らが立てた戦略は短期間で、あっさりと打ち砕かれてしまいました。
こうして戦略が破綻したことを悟った兼続は、敗北の責任を取るために自害しようとしますが、友人の前田利益に諫められ、撤退を決断します。
翌日には最上義光らも関ヶ原の戦いの結果を知り、撤退を始めた上杉軍に追撃を開始しており、この日に攻守が逆転することになりました。
自ら殿を務め、撤退に成功する
この時に兼続は、前田利益や水原親憲らの勇将たちとともに殿(最後尾の守り)を務め、畑谷城で防戦を行って敵の追撃を防ぎます。
そして畑谷城から出ると、敵陣に切り込み、蹴散らした上で整然と撤退を行い、10月4日には無事に米沢城に帰還することができました。
この時の兼続の撤退戦の様子は、敵将の最上義光から「敗報を受けたにも関わらず、少しも臆せずに心静かに撤退する様を見て、かつての謙信の武勇がいまだ上杉軍に残っていると感じた」と感銘を与えています。
後に徳川家康と会談した際にも、「以前から聞き及んでいた以上の武功の者」だと賞賛されました。
こうして兼続は危機を脱し、無事に帰還することができましたが、ここからは敗軍の将としての苦難を受けることになります。
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