劉曄の誘いを受ける
やがて孫策は200年に、仇討ちにあって横死してしまったため、弟の孫権がその後を継ぎます。
これによって一時的に孫氏の力が衰えた頃、魯粛の元に、友人の劉曄からの手紙が届きました。
この手紙には「廬江で鄭宝という者が一万以上の兵を集めています。
彼は肥沃な土地を抑えており、急速に勢力を伸ばしているので、身を寄せるのがよいでしょう」と書かれていました。
魯粛はこの時には、孫権のことをさして評価していなかったようで、誘いに乗って鄭宝のところに行こうとします。
周瑜に引き留められる
そして出発の準備をしていると、ちょうど周瑜が魯粛の母を伴って、呉までやってきました。
このため、魯粛は計画を周瑜に詳しく語ります。
これを聞いた周瑜は、「私の主君の孫権は、賢者に親しみ、立派な人物を尊重して任用しています」と語ります。
そして「主君には帝王になる素質がありますので、一緒に彼を助けて力を尽くしませんか」と勧誘しました。
すると魯粛は周瑜の言葉に従い、劉曄の誘いは断ることにします。
それほどに、魯粛は周瑜のことを信頼していたようです。
なお劉曄はこの後で、鄭宝に脅迫されたので彼を斬り捨て、曲折を経て曹操に仕えることになりました。
ですので、もしこの時に周瑜が会いに来ていなかったら、魯粛もまた曹操に仕えていたかもしれません。
そうなっていたら孫権が呉の皇帝になることもなかったかもしれず、このあたりは、なかなか際どい状況だったようです。
周瑜の推薦を受けて孫権に会う
周瑜は孫権に対し、「魯粛の才能は現在の時局を乗り切るのに十分に役立つものです」と述べ、「彼をよそに行かせてはなりません」と強く推薦しました。
すると孫権はすぐに魯粛を招き、語り合うことにします。
同席していた賓客たちが退出すると、魯粛も辞去しようとしますが、孫権は魯粛だけを呼び戻し、二人だけで向かい合って酒を飲みました。
そして次のように述べ、魯粛に意見を求めます。
「いま漢の王室は傾き、四方は雲がわくようにして乱れている。
私は父や兄の遺した仕事を引き継ぎ、斉の桓公や晋の文公(覇者となり、周王朝を支えた人物たち)のような功績をあげたいと思っている。
あなたは私のところに来てくださったが、どのように私を助けてくださるおつもりだろうか」
魯粛の返答
魯粛は次のように答えました。
「昔、高祖(劉邦)さまは心を尽くして楚の義帝に仕えようとされましたが、項羽に妨げられたので、それができませんでした。
今の曹操は、ちょうどその項羽にあたります。
ですので、あなた様が桓公や文公になろうとしても、その道は存在していません。
私は漢王室の再興は、不可能だと考えています。
そして、曹操をすぐに除くこともまた、不可能でしょう。
ですので、あなた様にとって最良の計は、江東の地に足場を築きつつ、天下のどこかに破綻がきたさぬか、注意深く見守られることです。
曹操は北方を制しましたが、直面する課題が多く、その処理に追われて南方には簡単に手が出せません。
それに乗じて荊州の劉表を討ち、長江流域を占拠した上で帝王を名のり、天下全体の支配へと歩を進ませる。
これこそが高祖がなされた事業です」
このように、魯粛は孫権に対し、「漢王朝を復興させようとするのではなく、とってかわって皇帝になれ」と勧めたのでした。
この時点の孫権は、まだ一地方の群雄であるに過ぎず、とても自分が皇帝になれるとは思っていませんでした。
なので孫権は「私は江東で全力をつくし、漢の朝廷にお力ぞえをしたいと願うのみだ。
あなたの言われるようなことは、私の力のおよぶところではない」と言って、魯粛に同意しませんでした。
しかし結果からすると、孫権は魯粛が言った通りの道を歩むことになります。
このあたりは、魯粛の方に先見の明があったというべきでしょう。
孫権は魯粛を尊重する
孫権は魯粛と話した後で、彼が語った構想の雄大さを気に入り、ますます尊重するようになりました。
重臣の張昭は、「魯粛には傲慢なところがあります」として、何度か非難の言葉を孫権に伝えます。
そして「年が若く物事に精通していないので、任用するのは早すぎます」とも意見を述べました。
しかし孫権はそれを意に介さず、魯粛の母に衣服や帳を贈り、住まいや調度品を豪華にしつらえさせました。
魯粛はもともと富裕な家柄の生まれでしたが、孫権が贈ったのはそれまでに使っていたのと同じ水準のものでした。
こうして魯粛は孫権に気に入られ、側近として仕えるようになります。
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