重蔵と忠僕茶屋
重蔵はその後、薩摩の宿に留まりつつ、夕方になると南林寺に赴き、月照の墓を訪れて冥福を祈りました。
夕方に訪れたのは、月照は罪人になっていたため、昼間に堂々と墓を訪れることが禁じられていたからです。
本来は夕方以降も禁止されていたのですが、忠義心が厚い重蔵のために、寺の側が黙認してくれたのでした。
しかし、やがて月照の逃亡を助けた罪に問われ、重蔵は幕府の役人に捕らわれて京に連れ戻されます。
それから数ヶ月の間、牢に入れられて尋問を受けましたが、重蔵自身は政治活動を行っていたわけではありませんでしたので、さほどの刑罰は受けずにすみ、釈放されて家族の元に戻っています。
重蔵の妻は夫がいなくなってしまったため、その間に清水寺の境内に茶屋を開き、そこから収入を得て暮らすようになっていました。
このため、戻った重蔵は茶屋の亭主として過ごしつつ、清水寺に改葬された月照の墓を、生涯に渡って守り続けています。
この茶屋はやがて、重蔵が月照に忠実に尽くしたことから、「忠僕茶屋」という屋号を使うようになり、その名で現代でも営業を続けています。
もう一人の忠臣
月照には近藤正慎という相弟子がいて、彼は清水寺に寺侍として仕えていました。
近藤はかつて清水寺・金蔵院の住職だったのですが、女性問題を起こし、辞職して還俗していた、という過去がありました。
そして困窮していたところを、月照が清水寺に働きかけ、寺侍として働けるようにしてやったのです。
それだけでなく、月照は親代わりとなって近藤の面倒を見ており、このために近藤は月照を強く慕うようになっていきました。
それゆえに近藤は月照が京を脱出する際に、重蔵と同じく同行を願ったのですが、成就院の留守を託されたため、やむなく残留しています。
しかしこれがあだとなり、近藤はやがて幕府に捕らえられてしまいました。そして月照の行方を白状させるために、幕府は近藤に厳しい拷問を加えます。
近藤は拷問に耐えかね、無意識のうちに白状してしまわないために、自ら食を絶ち、その命を縮めていきました。
そして十数日が経過したものの、死にきれなかったので、牢獄の壁に頭を打ち付け、舌をかみ切るという、壮絶な方法で自害を遂げています。
舌切り茶屋
近藤には、妻のきぬと二人の子どもがいました。
きぬはこうして夫を失い、残された子どもたちを養育するため、清水寺からの援助を受け、忠僕茶屋の隣に茶店を出して暮らしを立てています。
この店は後に、近藤の自害の様子から「舌切り茶屋」と名づけられ、こちらも現代でも営業が続けられています。
月照の人柄
このように、重蔵や近藤から忠義を尽くされていることから、月照は人に慕われるだけの徳を備えていたことがうかがえます。
「月照は眉目清秀で、その端厳な風采は自ずから人の敬信を集めた」という評が残されています。
西郷がともに死のうと思ったのは、月照にそうさせるだけの人柄が備わっていたから、というのもあったでしょう。
西郷はその後、大久保らの同志たちとともに薩摩藩を動かすほどの力を手に入れ、長州藩などの雄藩を味方につけ、幕府を打倒して明治維新を実現します。
そうして功を遂げて後、西郷は1874年、月照の17回忌に漢詩を作り、かつてともに死のうと海に飛び込んだ時のことを回顧し、墓前で涙を流したことを語っています。
この詩は石碑に刻まれ、いまでもそれが清水寺に残されています。


