譙周 劉禅に降伏を決断させた蜀の儒学者

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劉禅を説得する

こうして譙周の意見でまとまっていきそうになりましたが、劉禅はなおも南方に行こうかどうしようか、迷っていました。

このために譙周は、再び弁をふるいます。

「陛下は魏軍が深く侵入してきたため、南方へ行く計画をお持ちだと述べる者がおりますが、臣は愚かですので、穏当な方法ではないと考えます。

その理由を述べさせていただきます。

南方は遠く、蛮族たちの土地で、通常は租税や役務を課すことがないのに、しばしば反乱を起こしてきました。

やがて丞相・諸葛亮が南征し、軍事力によって屈服させたために、彼らは追いつめられ、服従するようになりました。

それ以後は朝廷が命じる税を納めさせ、それを取り立てて軍事費にあててきましたので、彼らはそれに苦しみ、恨みを抱いています。

ゆえに彼らは、国家に害を与える存在だと言えます。

いま、追いつめられて彼らの元に身を寄せ、頼りにしようとしても、再び反逆するに違いありません。

これが第一の理由です。

魏軍が来襲をしたのは、単に蜀を得ることが目的ではありません。

もしも南方に逃走をすれば、必ずや我が軍の数が減り、衰えたのにつけ込み、すぐに追撃をかけてくるでしょう。

(魏の目的は漢王朝を完全に屈服させ、新政権の正当性を確立することにあり、このために劉禅が逃亡をしても、見逃す可能性がなかったことを指摘しています)

これが第二の理由です。

もし南方に到着できたとしても、外は敵を防ぎ、内は陛下の衣服や車馬の御用をまかなわねばならず、その経費は膨大なものとなります。

他に取り立てるところがありませんので、蛮族たちを消耗させることになります。

その消耗が甚大なものとなれば、彼らはすぐに反旗をひるがえします。

これが第三の理由です。

昔、王郎が邯鄲かんたんを根拠として帝号を僭称しました。

その時、世祖(光武帝)は信都におられ、王郎の圧迫を恐れました。

このため、信都を捨て関中に戻ろうとなさると、邳彤ひとうはこれを諫めて『公が西方へ帰還なさると、邯鄲の住民は父母を見捨て、王郎に背いてまでして、千里のかなたへとあなたを送っていくことは承知しないでしょう。

彼らが逃亡し、離反するのは必至です』と申しました。

すると世祖はこの意見に従い、邯鄲を打ち破っています。

いま、魏軍が到着するにあたり、陛下が南方へ行かれたならば、邳彤の言葉が正しかったことを、証明することになるのではないかと危惧いたします。

(劉禅が成都を捨てて逃げれば、蜀の民は離反してしまい、再起は不可能になると説いています)

これが第四の理由です。

陛下には、早く手を打って下さるようにお願いいたします。

そうすれば、爵位と封土を手に入れることができるからです。

もし、あくまでも南方に赴かれ、追いつめられてから初めて屈服をいたしますと、その災いは大きくなるでしょう。

『易』には『こうという言葉は、獲得することを知って喪失を知らず、生きながらえるだけを知って滅ぶことを知らない、という意味である。

損失と存亡を知って正しく対応できる者、それは聖人のみである』とあります。

これは、聖人は運命をわきまえ、物事に固執しないことを表しています。

ゆえに、堯舜ぎょうしゅん(古代の賢王)は我が子が悪をなすため、他人に天子の位を授けよとする天の意志を知り、天子としてふさわしい人物を探し出し、位を授けました。

我が子が不肖の者だとしても、災禍が兆すよりも先に、他人を迎えて帝位を授けたのです。

ましていまは、すでに災禍がふりかかっています。

だから微子びしは殷王の兄でありながら、自ら手を後ろに縛り、死者と同じように、へきを口に含んで武王に帰順しました。

喜んでそれをしたわけではありません。

やむを得ずにそうしたのです」

この説得を受け、劉禅は譙周の提案に従うことにしました。

すると譙周が予測した通り、魏は劉禅に爵位と封土を与え、諸侯として礼遇しています。

領地は一万戸で、他に絹一万びき奴婢ぬひ百人を与えられており、元国王として十分な待遇を受けたと言えます。

このため、劉氏の安全にはなんの心配もなく、国中の民が苦しめられることもなかったのは、譙周の献策によるものでした。

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