陳寿の述懐
三国志の著者・陳寿は、譙周と最後に会った時のことを記しています。
『269年、私(陳寿)はかつて巴西郡の中正(人事官)をしていた際に、その仕事を終え、休暇を申請して家に戻ろうとしていた。
その際に、譙周に別れの挨拶をしに行った。
譙周は私に「昔、孔子は72才で、劉向、楊雄(ともに前漢の儒学者)は71才でこの世を去った。
いま、わしの年は70を越えている。
できれば孔子の遺風を慕い、劉向、楊雄の軌をたどりたいものだ。
おそらく次の年を迎えることなく、長い旅に出るだろうから、もう会うことはないだろう」と告げた。
譙周は未来を予測する術によってこのことを知り、孔子たちにかこつけて私に告げたのだろう。
270年に散騎常侍(皇帝の側近)となったが、重病の身だったので拝命しなかった。
そして冬になって亡くなった』
このように、譙周は自らの死期もまた予測していたようです。
ちなみに譙周は陳寿に対し、「卿は必ず学問によって名をあげることになるだろう。
その後、おそらく挫折することになるだろうが、それは不幸ではない。
よく慎むがよい」と助言していました。
こちらも後に、的中することになります。
追悼される
司馬炎は譙周の死に際し、詔を出しました。
「朕はこれを悼み、朝服と衣服、そして銭十五万を賜与する」
すると譙周の子・譙熙が上言をします。
「父は臨終に際して私に遺言をしていました。
『久しく病にかかり、一度も朝見をしなかった。
もし国恩を受け、朝服や衣服を賜ることがあっても、この身に着せてはならない』
故郷の墓に戻るにあたり、道は険しく、難渋いたしますので、軽い棺を作らせ、仮のもがりも終えております。
ですので、賜ったものをお返しいたします」
このため、衣服を返し、棺の費用を与えよと詔が下されました。
このように、譙周は死に際しても節義を守ったのですが、一方で死んだ後に晋の官服を身につけたくないという意識を持っていたのかもしれません。
譙周の著作と子孫
譙周が著述、編纂した書物は『法訓』『五経論』『古史考』など、百余篇にのぼりました。
譙周の3人の子は譙熙・譙賢・譙同といいました。
末子の譙同は学問を好み、父と同じく忠実・質素を旨とし、孝廉に推挙されます。
そして錫の令、東宮洗馬(皇太子の側近)に任命されましたが、就任しませんでした。
また、長男の譙熙の子は名を譙秀といいましたが、晋が衰退することを見抜いており、仕官しませんでした。
しかし節義と清潔な人格の持ち主だったことを称賛され、史書に名前が残されています。
譙周評
三国志の著者・陳寿は「譙周は文章の解釈に通暁しており、当代の大儒だったと言える。
董仲舒、楊雄(いずれも前漢の著名な儒学者)の水準に達していた」と評しています。
すでに触れた通り、陳寿は漢を終わらせる役目を果たしたことから、後世からは非難を浴びがちになっています。
しかしながら、当時の情勢を考えると、劉禅を生き延びさせ、晋の諸侯となって劉氏の社稷を継続することが、蜀漢の血統を絶えさせないための唯一かつ現実的な方策であり、譙周の説いたことは間違いではなかったと思われます。