地位が高まり、後進の指導も行う
譙周はやがて光禄大夫(皇帝の顧問)に昇進し、九卿に次ぐ地位になります。
政務には携わらなかったものの、学識と品行によって礼遇を受けたのでした。
そして大問題が持ち上がった際には意見を求められ、いつも経典に基づいて返答をします。
また、後進のうちで学問への意識が高い者は、疑問に感じたことを譙周に質問しました。
この中には、三国志の著者である陳寿も含まれています。
全体としては、評価は高くなかった
このようにして譙周は地位が高まったのですが、実は蜀の内部では、譙周に対する評価は高くなかったという話があります。
譙周は政務に携わることがありませんでしたので、どれほど知識があっても、現実の役に立つ能力はないとみなされていたのでした。
このために譙周を尊敬し、心を寄せる者は少なかったといいます。
ただ、各地の太守を歴任した楊戯だけが、譙周を重んじていました。
あるとき、楊戯は「われわれの子孫は、結局この長身の男に劣るだろう」として称賛しましたが、これが的中したことから、楊戯の見識が高く評価されることになります。
蜀が滅亡の危機に晒される
やがて263年になると、譙周が懸念していたとおり、蜀の国境が魏の大軍に侵される事態となります。
魏の大将軍・鄧艾が江由を渡って一気に進軍し、蜀の首都・成都まで迫ってきたのです。
しかし蜀の側は、この事態を全く予想しておらず、城の防衛準備すらろくに整っていませんでした。
そして鄧艾が隠平にまで進軍したと知ると、住民は大混乱に陥り、みな山野に逃げ出すありさまとなります。
蜀の中枢がいかにゆるみきっていたかが、うかがえる話です。
劉禅に降伏を促す
劉禅は群臣を集めて協議させましたが、どんな手を打てばよいのか、誰にもわかりませんでした。
ある者は、蜀は呉と同盟関係にあるのだから、呉に逃げればよいと主張し、ある者は南中の七郡は険しい土地で、防衛がしやすいので、南に逃げた方がよいと主張しました。
そして譙周だけが、次のように意見を述べました。
「古よりこの方、他国に身を寄せておきながら、天子(皇帝)だったものはいません。
いまもし呉に入ったならば、その臣下として服従することになります。
しかも政治の体制が同じであれば、大国が小国を併呑しますので、魏が呉を併呑することはできますが、呉が魏を併呑することはできません。
同じく臣下となるのであれば、小国の臣下になるよりも、大国の臣下になる方が、まだましでしょう。
呉の臣下となってから呉が魏に併呑されれば、一度ならず、もう一度臣従をする屈辱を受けることになります。
そして、もしも南方に逃走するのであれば、早くから準備をしておくべきで、それによって初めて実行が可能となります。
現在、大敵が接近し、災禍がふりかからんとしている中で、小人たちの心は不安定になっています。
この状況下で南方に向かいますと、その間にどのような変事が起こるか予測ができません。
(これは逃走中に、劉禅が殺害される可能性を示唆しています)
それなのに、どうして南方に行き着くことができるでしょうか」
こうして譙周は、呉に逃げることも、南方に逃げることも、やめた方がよいと反対します。
魏への降伏を主張する
すると群臣の中に、譙周を批判する者が現れました。
「鄧艾はすぐ近くまで迫っており、すでに勝利を手にしているのだから、おそらく降伏を受け入れないでしょう。どうするのです」
すると譙周は答えました。
「今はまだ東の呉が降伏していないので、情勢からして、魏は蜀の降伏を受け入れないわけにはいきません。
そして受け入れた後は、礼遇しないわけにもいきません。
もしも陛下が魏に降伏なさったのに、諸侯に封じなかった場合には、私が洛陽へ参り、降伏した君主に対する古来からの礼遇を説くことに、全力を尽くす所存です」
この譙周が説く道理を、くつがえせる者はいませんでした。
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