劉禅を諫める
劉禅は劉璿を太子にすると、譙周を太子僕とし、やがて太子家令に転任させ、側近とします。
この頃、劉禅は頻繁に遊覧に出かけ、宮中の楽士の数を増員するなどしていました。
すると譙周は上疏してこれを諫めます。
「昔、王莽(前漢から簒奪をした皇帝)の権力が失墜すると、群雄たちが立ちあがり、州郡を占拠し、帝位の印である神器を我が物にしようとしました。
この時に賢才や智士は帰順できる相手を探しましたが、必ずしもその勢力の大きさや広さを問題にせず、その徳義が厚いか薄いかを問題にしました。
当時は更始帝や公孫述などが大軍を保有し、その他にも広大な勢力を築いた者たちが多数いましたが、彼らはみな快楽を求め、欲望を満たそうするだけで、善事をなすことを怠りました。
そして遊猟や飲食に明け暮れ、民衆の暮らしをかえりみませんでした。
それゆえ世祖・光武帝(後漢の初代皇帝)がはじめて河北に入られると、馮異らは『他の者たちができないことをやるべきです』と進言をしたのです。
こうして冤罪の者の審理をやり直し、飲食を慎み、法律や制度の遵守に努めました。
このため、北部では徳を称賛する歌がうたわれ、評判が四方に広がっていきました。
その結果、鄧禹が南陽から徳を慕って参上し、呉漢や寇恂は世祖と面識がなかったのに、漁陽や上谷の騎兵隊を引きつれて、世祖を出迎えました。
それ以外にも、評判にひかれて邳彤・耿純・劉植といった者たちが集います。
(ここで名前が挙がっている者たちは、みな後漢の建国に貢献した「二十八将」として名が残っています。
彼らは「光武帝には徳がある」という評判を聞いて仕えるようになったことを、譙周は述べています)
さらには病の身を車に乗せ、棺桶をたずさえたり、子供を背中にくくりつけて駆けつける者が、数知れぬほどになりました。
だから世祖は弱小から強大となって、王郎を滅ぼし、銅馬を平定し、赤眉を打ち破って帝業を完成したのです。
(銅馬・赤眉は、どちらも農民が主体の反乱勢力です。三国志における黄巾に相当します)
その後、世祖は洛陽に住まわれるようになってから、近辺にお出かけになろうとしました。
御車にお乗りになった後、銚期が『天下がまだ安定しておりませんのに、陛下はしばしばお忍びで外出なさっていますが、臣は好ましくないことだと存じます』とと諫めたところ、すぐに車を戻されました。
それから世祖が隗囂(涼州の軍閥)を征伐すると、潁川で盗賊が蜂起しました。
世祖は洛陽に帰還なさると、寇恂を派遣するだけですませようとしましたが、寇恂は『潁川では陛下が遠征にお出かけしたことを機に、決起して反逆をしたのです。
陛下が帰還なさったと知らないうちは、すぐには降伏しないでしょう。
ですので陛下ご自身が向かわれるのであれば、潁川の賊徒はすぐに降伏するでしょう』と申しました。
このために潁川に向かわれ、寇恂が言うとおりの結果となりました。
このことからわかるように、緊急事態でない限り、近辺へのお出かけはしない方がよいのです。
そしてじっとしていたいと望んでも、緊急事態が発生したならば、そうはいかなくなります。
当然のことではありますが、天子の善行に対する世間からの欲求は、このようなものです。
古来からの書物には『民衆はいたずらにつき従わない』とあります。
ですので、徳行をもって模範を示される必要があるのです。
いま、漢は厄運にみまわれ、天下は三つに分割されており、武勇や英知を持った者たちが、帰順する先を見いだすことを、待ち望んでいます。
陛下は天性、至孝であらせられ、先帝(劉備)に対して三年を越える喪に服され、語るたびに涙を流されるなど、曾参・閔損(いずれも孔子の弟子。孝行者だったことで知られる)にもまさっているほどです。
賢者を敬い、才能のある者を任用し、彼らに能力を尽くさせる点では、成王や康王(古代の賢王)を凌駕していらっしゃいます。
だから国内は一致団結し、皆が力を合わせているのは、臣が申し上げるまでもないほどです。
しかしながら、臣はさらに、陛下が人がなしえないことにまで、広く気を配られるよう願うものです。
大変に重い荷車を引く場合には、大きな力が不足していることが苦になり、大きな困難を切り抜けるには、幅広くよい手段が講じられないことが、苦になるものです。
しかも大業を受け継ぎ、宗廟にお仕えする身ともなれば、幸運が訪れるのを待つのではなく、民を指導し、天を尊ばなければなりません。
四季の祭祀には臨席されない場合がありますが、池や苑の遊覧ですと、よくお出ましになっています。
愚かな臣は、心中で落ち着かない思いをいたしております。
心配事や責任を背負う者には、歓楽にふける暇はないものです。
先帝(劉備)のご意志を受け継がれながら、まだ果たしておられないのですから、歓楽を尽くす時期ではありません。
願わくば、楽しみを減らしてくださいますように。
後宮の増築に関しましては、先帝の造作されたものを遵守なさり、後世の子孫のために節倹の手本を示されますように」
このように、譙周は言葉を尽くして劉禅が楽しみにふけり、浪費をしようとしていることを諫めたのでした。
譙周の見識の確かさがわかりますが、一方で、蜀がどうして劉禅の代で滅んだのかが、うかがえる挿話となっています。
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