後世の批判
このようにして譙周が降伏を勧めた事に対し、何人かの後世の史家が批判しています。
それらはみな、正義を守るためならば、臣下は主君とともに死すべきで、降伏したのはよろしくない、といった論調です。
しかしこれらは現実を見ない、後世からの勝手な意見だと言えます。
当時の蜀は、黄皓のような悪臣が政権の中枢に座って統治が乱れており、大将軍の姜維はいたずらに軍を動かした上に、魏軍にたびたび敗北していました。
そして劉禅は暗愚であり、もはや蜀を維持していくのが不可能だったことは明白でした。
それにも関わらず、南方に逃れて悪あがきをしたところで、劉禅は不幸な運命に陥り、蜀の民は混乱によって苦しめられる可能性が高かったでしょう。
譙周が述べた通り、この状況下では魏への降伏を選択するのが、全員にとって最善手だったと思われます。
魏に召し寄せられるが、病にかかる
当時、魏は相国(首相)である司馬昭が主導していました。
司馬昭は譙周が国家を保全した功績を取り上げ、陽城亭候に封じています。
また、文書を下して譙周を召し寄せました。
このため、譙周は成都から出発しましたが、漢中に着いたところで重病にかかり、そこから進めなくなります。
司馬昭の死を予見する
やがて265年になると、元の蜀臣で、晋に仕えるようになっていた文立が洛陽から蜀に戻り、譙周を訪問しました。
譙周は話の中で、書版に書いたものを文立に示します。
そこには『典午は忽として月酉に没す』と書かれていました。
典午とは司馬を意味し、月酉は8月を意味していました。
つまりこれは『司馬昭が8月に没するだろう』という予測だったのですが、果たしてこの通りになります。
譙周は天文を読んで未来を予測する術にも通じており、蜀の滅亡を予見していたという話もあります。
要請を受けて洛陽に到着する
やがて晋王朝が成立しましたが、司馬炎が即位をすると、何度も詔を出し、漢中から洛陽への通路になる土地は、譙周の世話をして送り出すようにと命じました。
このため、譙周は病の身を車に乗せ、267年に洛陽に到着します。
病が治らなかったため、司馬炎は譙周の元に出向いて騎都尉の辞令を渡すという厚遇をしています。
蜀を降伏させた譙周の存在は、晋にとってそれほど重要なものだったのでした。
これによって晋は、その政権の正当性を得ることができたからです。
しかし譙周は、功績もないのに報償を受けたので、爵位と封土を返上したいと申し出ましたが、許されませんでした。
譙周としては、主君を降伏させたことを功績とされ、称賛を受けるのは不本意だったのでしょう。
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