王商に問われる
やがて劉焉が亡くなり、子の劉璋が代わって益州を統治するようになります。
その頃、劉璋に仕えていた王商は、秦宓と同じ郡の出身でした。
そして治中従事(側近)にまで立身した頃に、秦宓に手紙を送っています。
「貧窮の中で困苦して過ごしておられますが、いつまでそんな暮らしをされるのでしょうか。
卞和は名玉をひけらかすことで、目立つ存在となりました。
どうか一度おいでになって、州牧(劉璋)に会って下さい」
秦宓の返書
これに対し、秦宓は次のように返書を出しました。
「その昔、帝位を譲ろうとした堯(古代の賢王)の、許由に対する好意は大きなものでしたが、許由はその話を聞くのも汚らわしいと感じ、川で両耳を洗いました。
楚国は荘周(思想家の荘氏)を、丁重な礼をもって迎えようとしましたが、荘周は竿を握ったままで、まったく気にしませんでした。
『易』には、『確固として抜くべからず』とあります。
どうして自分をひけらかす必要があるでしょう。
国主には賢明さがある上に、君が良き補佐役となっているのです。
この状況で、蕭何や張良(劉邦の軍師)のような策が立てられないのであれば、智者たるには力が足りていない、ということになります。
私は畑の中で、背を日の光にさらし、顔回の清貧の暮らしを唱え、原憲の草庵の住まいをうたい、時に林や沢を飛び回り、長沮、桀溺の仲間と交流しています。
(顔回と原憲は儒学者で、長沮と桀溺は隠者です)
そして玄猿の悲しげな声を聴き、奥深くにある沢で鶴が鳴いているのをみて、安らかな生活を楽しんでいます。
憂いのない生活を幸福とし、名前を知られず、神霊のごとき優れた才能がないことに、安住しています。
私を知る者がまれなのは、私がそれだけ貴いということです。
いまこそが、私が志を得ている時なのです。
どうして困苦の憂いがありましょうか」
このように述べ、秦宓は隠者であることを楽しみ、自分にあった生活だと考えていたのでした。
祠を建てるように求める
一方で秦宓は、王商が厳君平と李弘(いずれも儒学者)のために祠を建てた時に、手紙を送って次のように述べています。
「病に伏せっていましたので、いまはじめて、あなたが厳君平と李弘のために祠を建てられたと聞きました。
同類の者に対し、手厚いはからいだと言えます。
厳君平の文章は、天下に知れわたるのにふさわしいものです。
許由や伯夷のような秀でた節操を持ち、山のような、不動の重厚さがあります。
たとえ楊雄(高名な儒学者)が彼を称賛していなかったとしても、自らの力で明るく照らし出されたことでしょう。
一方で李弘は『法言』で称賛されていなければ、その名は必ず埋没していたでしょう。
彼が美しく、才知にあふれた文章を残さなかったためで、龍や鳳(楊雄)のおかげで名をあげることができました。
楊雄は著述に専念して世に利益をもたらし、泥の中に埋もれながらも汚れず、聖師(孔子)に習って行動し、今でも国内で、彼の文章は読み継がれています。
このように、わが郷に優れた人があり、四方のかなたにまで存在が知られていますのに、君が彼の祠堂を建てないことを、不思議に思います。
蜀にはもともと学者がおらず、文翁(蜀の群守)が司馬相如を都にやり、七経の学問を学ばせ、帰ってきたらそれを役人や民衆に教えさせました。
その結果、蜀の学問は斉や魯と肩を並べるほどの水準になりました。
それゆえ『地理志(漢書)』に『文翁が教えを唱え、相如が師となった』と述べられているのです。
漢王室は士人を得て、世を隆盛に導きました。
しかし董仲舒たちは封禅の儀式を理解しておらず、司馬相如がその儀礼を制定しました。
礼を制定し、音楽を作り、風俗を改善するのは、秩序をもたらして、世に利益を与えるための行いです。
卓王孫の娘を誘惑したという罪はありますが、孔子が斉の桓公の覇業を称え、公羊(史家)が叔術の国譲りを褒めているように、私もまた司馬相如の教化は、優れたものだったと考えています。
(司馬相如は、卓王孫という富豪の娘と駆け落ちをしたことがあり、それが玉に傷となっています。桓公などは、欠点はあったものの、優れた事跡を残した人物としてあげられています)
どうか祠堂を建立なさり、すみやかにその銘文を定めてください」
このようにして、秦宓は世に隠れようとしながらも、働きかけをすることもあったのでした。
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