再び攻めこまれ、救援を求める
こうして危機に陥った陶謙は、諸侯に救援を求めました。
すると北の青州にいた劉備が、数千の軍兵を引きつれて徐州にやってきます。
陶謙は劉備を重用し、丹楊の兵四千を劉備に与え、その戦力を強化しました。
さらに劉備を豫州刺史に上表し、小沛に駐屯させています。
曹操に追いつめられた陶謙にとって、劉備はよほどに頼もしく見えたのでしょう。
また、劉備は世間からの評判がよく、人望が厚かったので、彼を味方に取りこむことで、地に堕ちた自分の評判を、回復させたいという思いがあったかもしれません。
こうして陶謙が劉備を大事に扱ったことから、『三国志演義』では、陶謙は善人として描かれています。
実態がそうでなかったのは、これまでに記してきた通りです。

曹操が再度攻めこんでくるも、呂布の影響で危機を逃れる
194年になると、食糧を補充した曹操は、再び徐州に攻め込んで来ました。
そして瑯邪や東海の諸県を攻略し、陶謙をおびやかします。
頼みとしていた劉備は、曹操の攻勢を防ぎきることはできず、苦戦します。
陶謙はこの状況におじけづき、故郷の丹楊に逃げ帰ることを考えるようになりました。
しかしこの時、兗州の留守を預かっていた張邈が、呂布を引き込んで反乱を起こし、兗州の大半を占拠します。
本拠地を失った曹操は、再び撤退せざるを得なくなり、陶謙はかろうじて徐州を失わずにすんだのでした。
劉備に後事を託し、死去する
陶謙はすでに老い、曹操に敗れたことで精神が萎縮し、そのうえ病にかかりました。
このために死期が迫ると、別駕(刺史の補佐役)の糜竺を呼び、「劉備でなければ、この州を安定させることはできまい」と言い残しました。
そして間もなく死去しています。
享年は六十三でした。
やがて劉備は糜竺に説得され、徐州の統治を担当することになります。
陶謙評
三国志の著者・陳寿は「陶謙は惑乱して憂死した。(同じく勢力を失った公孫瓚などと並べ)州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもでもあり、論評に値しない」と評しています。
実際のところ、陶謙は能力はあったものの、倫理観が欠けていたことを晩年に露呈し、著しく評判を下げた人物だと言えます。
誰かの下について働く分にはよかったのでしょうが、人の上には立たせてはいけない人物だったのだと言えます。
このためにせっかく豊かな徐州を手に入れたものの、そこからはさしたる功績も立てず、曹操の怒りを買って激しい攻撃を受けることになりました。
しかし最後に劉備と出会い、彼を厚遇し、後事を託したことから、いくらか印象の修正を受けています。
最期には、ある程度は正気を取り戻していたのかもしれません。
陶謙は死後に、呉に仕えた名臣・張昭からその死を惜しむ哀悼の辞を贈られており、晩年以外の時期は、世間からの評判がよかったことがうかがえます。
なお史書には、陶謙の子である陶商と陶応は、ともに仕官をしなかったと記されています。
支配者として登りつめていった、曹操の父殺害の責任を陶謙が負ったため、子どもたちは仕官をするのが難しくなったのではないか、と推測できます。
陶謙の晩年のふるまいは、子孫に何かと祟ったことでしょう。


