于禁 曹操の元で活躍するも、関羽に降伏して評価を下げた将軍

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于禁は虞翻を称賛する

このようにして時間が経過するうちに、やがて曹操は死去し、曹丕が後を継ぎました。

そして曹丕が魏の皇帝になると、孫権は臣従を申し出たので、于禁は帰国できることになります。

この時に、またしても虞翻が孫権に意見を述べました。

「于禁は戦いに敗れ、数万の軍勢を失いながら、捕虜となり、節義を守って死ぬことがありませんでした。

北方の軍の慣例によりますと、そのような于禁が戻っても、軍律どおりに処刑することはないでしょう。

彼を送り返したところで損害はありませんが、罪人を解放することになります。

ですので彼をここで処刑し、臣下の身でありながら、忠義を守り通せなかった者がどうなるか、その見せしめとなさるべきかと存じます」

孫権はこの意見を採用しませんでしたが、于禁に対する世間の見方が現れた発言でもありました。

于禁が出発する際に、虞翻は「あなたは呉に人物がいないなどと、考えないでもらいたい。たまたま、私の意見が用いられなかっただけなのだ」と言います。

このようにして、于禁は最後まで虞翻に憎まれていましたが、魏に戻ると虞翻のことを称賛しました。

虞翻の発言やふるまいには筋が通っていたので、于禁はそれほど不快には感じていなかったようです。

なお、虞翻はやがて孫権に強く疎まれるようになり、辺境に追放され、そこで一生を終えました。

これほどまでに執拗に人を批判し続けると、やがては世に受け入れられなくなってしまうようです。

安遠将軍に任命される

于禁が魏に到着し、曹丕に謁見すると、ひげも髪も真っ白になっており、ほおがげっそりとやせこけていました。

降伏してから、呉で暮らしていた際に受けた心労は、とても大きなものだったようです。

于禁は涙を流し、頭を地に打ちつけて辞儀をしました。

すると曹丕は、荀林父じゅんりんほ孟明視もうめいしらの故事を持ち出し、于禁を慰めて安遠あんえん将軍に任命します。

荀林父や孟明視は、敵に敗れたり捕らえられたりしたものの、その後も戦いに起用された人物たちです。

このようにして、曹丕は寛容にふるまったのですが、しかしこれは見せかけでしかありませんでした。

病にかかって亡くなる

曹丕は于禁に、呉に使者として派遣するつもりだと告げ、先に曹操の陵墓を参拝するようにと命じました。

捕虜になっていたため、曹操の葬儀に立ち会えなかったからでしょうが、曹丕はこの時に、意地の悪いしかけを施しています。

曹丕は先んじて御陵の建物に、関羽が勝利し、龐徳が怒り、于禁が降伏している様子を絵にかかせていたのです。

于禁はそれを見ると、恥と腹立ちのために病にかかり、亡くなってしまいました。

于禁に大きな失態があったのは確かでしたが、それにしても、曹丕のやりざまは悪辣だったと言えます。

地位を与えて安心させてから、絵を見せて心をいたずらに傷つけるのは、とても立派な君主のふるまいだとは言えません。

ともあれ、こうして于禁は世を去り、子の于けいが後を継ぎ、益寿亭候に取り立てられています。

于禁にはこう侯とおくりなされましたが、この「厲」という字には「病む、虐げる、災い」などの意味があり、于禁は死後も辱めを受けたのでした。

于禁評

三国志の著者・陳寿は「于禁は将軍たちの中で、最も剛毅で重きをなしていた。しかし、最後までそれを貫くことができなかった」と評しています。

于禁は生涯に渡って曹操の元で戦功を立て続けましたが、関羽との戦いにおける一度の失敗によって、全ての名声を失ってしまうことになりました。

この結果からすると、龐徳と同じように、最後まで戦って戦死していた方がよかったのだと言えます。

曹操が失望したのは、普段の于禁の態度からして、危機に陥っても降伏することなどないだろうと、考えていたからなのでしょう。

それはおそらく魏の人々に共通する認識であり、その落差が于禁への評価を大きく下げることにつながりました。

高い評価を得ても、それをもたらした態度を最後まで貫き通せないと、評価の下落の幅が大きくなってしまうようです。