その死
しかしこの直後、利家は病に倒れ、余命がいくばくもない状態になってしまいます。
この時に家康が利家を見舞いに訪れますが、利家はいざという時のために、抜身の刀を布団の中に忍ばせていた、という逸話が残っています。
死に瀕してもなお、気迫が衰えていなかったことがうかがいしれます。
やがて危篤におちいると、妻のまつが経文を記した帷子(かたびら)を縫い、利家に着させようとします。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。ですからこの経帷子をお召しになってください」と利家に言います。
しかし利家は、「これまでに多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。もしも地獄に行ったら閻魔を相手にひと戦してくれよう」と答えました。
利家の豪気な性格と、軍人としての倫理観を知ることができる逸話です。
利家の病は苦痛を伴うもので、やがてそれに腹を立てた利家は、割腹して自害したと言われています。
これを聞いた家康は「天晴だ」と賞賛したそうです。
こうして利家は、1599年に62才で死去しました。
家康はこの後、17年も利家より長く生きており、この差が豊臣家と徳川家の運命の分かれ道になりました。
利家の死後は家康に対抗できる者はおらず、じわじわと豊臣家は滅亡に向かっていくことになります。
その後の前田家
利家が亡くなって間もなく、家康はその子の利長に対し、自身に対する暗殺計画を立てているとの嫌疑をかけます。
そして討伐軍を加賀に向かって進軍させますが、利長が母(利家の妻)のまつを家康に人質として差し出すことで、この討伐を回避しています。
以後は家康に従い、その傘下の大名として活動するようになります。
そして関ヶ原の戦いでも徳川方の東軍に属し、北陸方面で西軍に味方した丹羽長重と戦っています。
この結果、戦後にはさらに領地を加増され、前田家は100万石の領地を持つに至り、いわゆる「加賀百万石」の領国が形成されます。
さらに徳川譜代の本多家から家老を迎えて5万石の領地を分け与え、徳川氏に恭順する姿勢を強めていきます。
前田家は徳川将軍家の400万石を除くと最大規模の大名でしたので、常に幕府から警戒されていました。
これを和らげるために、前田家の当主たちはかなり気を配っていたようです。
3代目の利常(利家の側室の子)は、わざと鼻毛をのばして愚かなように見せ、幕府の警戒を解こうとしていた、という逸話もあります。
最もその魂胆は見抜かれており、底の知れぬ人だとして、よりいっそうの警戒を呼んでしまったようですが…。
利常は傾奇者であったと言われ、利家に最もよく似ていた、とも評されています。
この利常の元で前田家は内政を充実させ、領国はさらに発展し、120万石もの実力を持つようになっています。
こうして前田家はその後も存続し、明治維新を迎える時まで、徳川政権下の最大の大名としての地位を守り通しています。
利家という人
これまで見てきた通り、利家は若い頃は一個の武勇の士として信長に賞賛され、やがては大軍の指揮官となり、最後は90万石の領地を支配する大大名の地位にまで昇っています。
秀吉ほどではありませんが、戦国時代における出世頭のひとりに数えられるでしょう。
若い頃は粗暴なふるまいも多かったと言われていますが、年を重ねるに連れて人柄が練れていき、家康を上回る人望を得るに至るなど、晩成型の人物であったことがうかがえます。
そのあたりの経歴が加藤清正などの、秀吉の小姓から出世した武将たちに親近感を持たれ、慕われる要因になっていたと思われます。
利家は倹約家で、妻のまつから吝嗇(けち)と言われるほどでしたが、そのために貯蓄が多く、諸大名たちに多額のお金を貸す立場にありました。
しかし強欲ではなく、遺言で利長に「こちらから貸した相手に催促はせず、返せないようなら借金をなかったことにするように」と告げており、このあたりの度量の大きさも、人気があった要因になっているのでしょう。
その存命時には、「利家は家康より官位も石高も低いが、人望はその5倍ほどもある」とまで言われています。
晩年の秀吉が利家を頼ったのも、うなずける話です。
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