イギリス政府の対応
ニールから報告を受けたイギリス政府は、幕府に賠償金の請求をし、薩摩藩にも賠償金の請求と、犯人の死刑を要求することを決定します。
イギリス政府は、日本がひとつの政府によって統一されていない事情を理解しており、双方に責任を求めることにしたのでした。
そしてこれが受け入れられない場合、海軍と相談して交渉を進めるように、ともニールに訓令を出しています。
これを受け、イギリス海軍は12の軍艦からなる大艦隊を編成し、横浜港に停泊させて圧力を高めました。
横浜は江戸のすぐ近くですので、幕府は喉元に刃を突きつけられたような状況になっています。
その上、さらに多くの艦隊を動員して、日本を海上封鎖するというプランも立てられています。
これは最終手段であり、どうしても幕府や薩摩藩が交渉を受け入れない場合にのみ、実行されることになっていました。
そして、陸戦隊を上陸させて江戸や京を占領する計画まで検討されましたが、こちらは当時のイギリス陸軍に、日本にまで大軍を派遣する余力がなかったために、見送られています。
ともあれ、生麦事件の余波は、これほどにイギリスと日本の関係を緊張させたのでした。
こうして準備を整えたニールは、生麦事件の真相は明らかであるにも関わらず、犯人を逮捕しないのはイギリスに対する侮辱であるとして、幕府を責め立てます。
そして10万ポンド(現在の価値でおよそ200億円)という莫大な賠償金を要求し、謝罪の文書を発行するようにと求めました。
これに加え、薩摩藩には2万5千ポンド(50億円)の賠償金と、犯人の処刑を要求します。
アメリカの反応
こうして当事者であるイギリスは強硬な態度を取りましたが、アメリカ公使・ブリューインは日本に同情的で、イギリス政府を批判しています。
ブリューインは、「大名行列に対する礼儀を守らなかったリチャードソンたちにも非がある」と唱え、イギリスの賠償金の請求は過剰であるとしました。
アメリカの新聞『ニューヨーク・タイムズ』も同様の論調を展開しており、アメリカでは日本への同情論が強まっています。
このようにして、この問題については諸外国の反応が別れており、足並みが揃っていたわけではありませんでした。
将軍の上洛と、朝令暮改
こうしてイギリスから要求が成されていた時期に、将軍・徳川家茂は京に上洛しています。
当時は既に政治の中心地が京に移っており、将軍と天皇が直接顔を合わせることで、公武合体(朝廷と幕府が一致協力する体制)を構築し、幕府の権威をなんとか維持しよう、というのがその目的でした。
このため、イギリスとの交渉は棚上げとされ、幕府は時間の引き延ばしを図っています。
そして京では諸外国を嫌う風潮が非常に強まっていた時期ですので、イギリスの要求を飲むのは国内事情的に難しい、という状況にありました。
このために幕府は朝廷に対し、「イギリスの要求を拒絶し、開戦も辞さない」と強気な報告しました。
そして諸藩に海防の強化を命じており、これを受けて横浜では開戦が間近だと信じられ、交易も停止状態になりました。
しかし、実際には幕府にそれほどの覚悟はなく、やがてイギリスに言われるまま、減額の交渉すらしないままに、賠償金の支払いを受け入れることになります。
アメリカが日本に同情的だったので、支援を要請して賠償金の額を減らす交渉くらいはできたはずですが、それすらしなかったところに、幕府の外交能力の低さが表れています。
こうして前言を翻してイギリスに屈したことで、幕府への朝廷からの信頼は、大きく損なわれることになりました。
生麦事件を契機として、幕府の政権担当能力のなさが如実に示され、それがやがて明治維新という変革を起こすことにつながっていきます。
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