内政干渉の危機
イギリス側も、幕府が諸藩の統制を実行できず、苦境にあることは認識していました。
このため、イギリスとフランスの両公使は、幕府を援助して諸藩を軍事的に圧迫し、日本の国内情勢を安定させ、居留民の安全を確保しようと計画します。
これは内政干渉にあたるとして、アメリカは反対しました。この頃のアメリカは、まだ発展の途上だったこともあり、外交面では慎重かつ優等生の態度を取っていたようです。
このために、イギリスとフランスのみが幕府に申し入れを行いました。
これに対し、幕府は「将軍は独力をもって大名との問題の解決に努める」と述べ、拒絶しています。
こうして日本は内政干渉を受け、諸外国の植民地にされる危機を逃れました。
この点に関しては、幕府は賢明だったと言えるでしょう。
これは後の薩長ら倒幕勢力にしても同様で、西郷隆盛は「日本人の問題は日本人のみで決着をつける」とし、イギリスから持ちかけられた、倒幕のための武力提供の申し入れを拒否しています。
幕府のふらつき
幕府はニールとの交渉で、なるべく目立たぬよう、7回に分割して賠償金を支払うと約束しました。
しかし、攘夷の風潮が強い中で、幕府が賠償金を支払ったと知られるのはまずい、と判断した一橋慶喜は、書簡を送ってこれを差し止めようとします。
すでに交わした約束を翻されたニールは激怒し、かくなる上は軍事行動の実施も辞さないとして、海軍に戦闘準備を開始させました。
この事態を受け、江戸で交渉を担当していた老中・小笠原長行は、独断で賠償金の支払いを行うと決断し、ようやくこの問題に決着をつけています。
しかし、小笠原はこの決断を後から非難され、老中を免職されてしまいます。
幕府がこれほどのふらつきを見せていた原因は、幕府全体をひとつに束ねて政策を決定できるほどの、政治力のある人材を欠いていたことにありました。
また、幕府はひとつの職に複数の人員をあて、権限を独占させず、合議によって物事を決めることを徹底していましたが、それがこの時期にはあだとなって、決断力のない、頼りにならない政権だという印象を、内外にふりまくことになってしまったのです。
徳川家康が構築した体制は、平和な時代に国内を安定して統治する上では機能しましたが、諸外国が武力をもって押し寄せてくる状況下では、役立たずに変じていたのです。
薩英戦争へ
ニールは幕府が賠償金を支払う以前から、犯人の差し出しを拒否する薩摩藩に軍艦を送り、圧迫を加えて要求をのませる意志があることを、幕府に伝えていました。
幕府はイギリスが直接薩摩との交渉を行うことを嫌い、これを止めようとしましたが、イギリスは耳を貸しませんでした。
そして1863年の6月22日に、7隻の軍艦から成る艦隊が、横浜を出港して鹿児島へと向かいます。
この時の出港は、あくまで武力で威圧しつつも、交渉をすることが目的でしたので、ニールの他、シーボルトやサトウといった、公使館の通訳たちも同行しています。
余談ですが、このシーボルトは日本で植物の研究を行い、欧州に日本を紹介したことでも知られるシーボルト医師の息子です。つまりシーボルト一家は、親子二代で日本との関わりを持っていたのでした。
もうひとりの通訳・サトウは後に日本公使にまで出世し、「一外交官の見た明治維新」という回顧録を残したことで知られています。
イギリス艦隊が鹿児島湾に到着する
6月27日にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し、湾内に深く侵入しました。
そして夕方には鹿児島の市街地からわずか1kmの地点に到着し、停泊しています。
これは艦隊の威容を近くで見せつけることで、薩摩藩を圧迫しようという意図から取られた措置でした。
一方、薩摩藩では元より、先代藩主・島津斉彬の時代から沿岸に砲台を築き、防御を固めていました。
その上、イギリスとの交戦の可能性が高まっていたことから、さらにその武備を強化しています。
砲台を増築し、大砲を増やし、遠見番所を設けて敵の位置の観測がしやすい体制を作っていました。
そして弾薬の製造を促進し、兵糧を貯蔵するなどして、戦闘準備を整えてイギリス艦隊を待ち構えていたのです。
さらには艦隊襲撃の訓練も実施しており、薩摩藩兵はすこぶる戦意が旺盛でした。
このため、イギリス艦隊が鹿児島湾に姿を現すと、ただちにのろしが上げられ、砲台の守備兵たちが参集し、速やかに配置についています。
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