和平交渉
薩摩藩は重野厚之丞や岩下方平を使者として、横浜でニールと交渉を行いました。
交渉の際にも、薩摩藩は容易に屈せず、生麦事件の犯人を処刑するにやぶさかではないが、いまだ行方不明であるために実行できない、と主張します。
この点について薩摩藩は譲るつもりがなく、最後まで犯人の差し出しも処刑も行っていません。
イギリスもこれを黙認することにし、深く追求をするのをやめ、譲歩を見せています。
一方で賠償金の支払いについては、幕府の命に従って実行するかどうかを決定しようと、薩摩藩もまた、以前よりも妥協した態度を見せました。
しかし開戦の責任がどちらにあるかをめぐって激論となり、薩摩側はイギリスが汽船を拿捕したことに責任があると主張します。
イギリスは幕府の了解を得て鹿児島湾に向かい、交渉をしたが薩摩が受け入れなかっため、やむなく汽船を拿捕しただけだ、と主張し、両者ともに譲らず、最初の交渉は物別れになりました。
その後も交渉が続けられましたが、開戦の責任を問う議論はやまず、決裂しかねない情勢となります。
3回目の交渉で決着しかける
幕府は交渉の決裂と、再度戦いが発生することを憂慮し、両者の仲介を行います。
この結果、3度目の交渉で講和が成立しかけました。
薩摩藩は賠償金の支払いと犯人の捜索を約束し、その交換条件として、軍艦の購入の斡旋を依頼します。
ニールはこれに同意し、薩摩藩への譲歩を見せています。
そして薩摩藩は、さらに軍艦の建造や、船員の訓練方法、指導者の雇用についても質問し、海軍の強化に意欲を見せました。
賠償金の借用
しかし薩摩藩の内部では、賠償金の支払いまで決めたのは、使者の越権行為ではないかと疑問が呈されました。
これを受け、久光は大久保利通に、この件をまとめるようにと命じます。
大久保は江戸に下ると、老中・板倉勝静に面会し、賠償金の借用を依頼しました。
薩摩から出すのではなく、幕府に出させることで支出を抑え、藩内の反対を抑え込もうとしたのです。
幕府も諸外国への対応のために費用がかさみ、財政難にみまわれていましたので、板倉は難色を示しました。
しかし大久保が、もしも借用を許可しなければ、イギリスとの交渉が決裂し、やがて天下の大事になるかもしれませんぞ、と板倉を圧迫します。
そしてニールもまた、期限が過ぎたにも関わらず、賠償金が支払われていないことを幕府に抗議して来たため、板倉はやむなく借用を認めました。
なお、この時に借りた賠償金を、薩摩藩が幕府に返却することはありませんでした。
決着
そして4回目の交渉が行われ、互いに文書を交わし、ようやく完全に交渉が決着しました。
賠償金は薩摩藩ではなく、佐土原藩が支払うという形式を取ることで、イギリスの要求をのんだという事実を和らげようとしました。
それでも薩摩藩内部の頑迷な者たちは反発し、交渉にあたった重野や岩下らは、襲撃されかねないほどの身の危険を感じていた、ということです。
いかな大事件が起こっても、それだけですべての人間の考えが変わるわけではないのが、社会の現実であるようです。
ともあれ、こうして生麦事件から一年以上が過ぎた頃、ようやく薩摩藩とイギリスの抗争が終結したのでした。
薩摩藩とイギリスが接近する結果をもたらす
このふたつの事件を通し、深く関わりをもった薩摩藩とイギリスは、やがて友好関係を築いていくようになります。
戦ったにもかかわらず友好的になったのは、奇妙なことにも思えます。
イギリス政府はすぐに前言を翻し、交渉を先延ばしにするばかりで、信用がおけない幕府に比べ、薩摩藩の勇敢さと粘り強さ、そして一度した約束は守ろうとする誠実な傾向を高く評価し、好意を抱くようになります。
そしてやがては、幕府よりも薩摩藩と関係を築いた方がよいのではないか、と考えるようになって行きました。
そして薩摩藩は、当時の覇権国であったイギリスの実力を認識し、接近して軍事技術を吸収することで、戦力の強化を図ろうとします。
薩摩藩は元より海軍力の不足を感じていましたので、イギリスはそれを学ぶ相手としてかっこうの存在だったのです。
この両者の思惑によって、薩摩藩とイギリスの間に友好関係が構築され、やがて幕末の情勢に、大きな影響を及ぼすことになりました。
生麦事件と薩英戦争の影響
こうして見てきた通り、ふたつの事件を通して、幕府はひたすらに権威を失墜させ、信頼を失っていき、逆に薩摩藩は国内での評判を高めることになりました。
そして薩摩藩は同時に、イギリスの強大さを認識して接近を図ったことで、もともと国内で最強格だった武力を、さらに強化する道をたどることになります。
薩摩藩とて、当時の風潮の影響を受け、外国人を嫌い、新しい技術を受け入れない保守的な者が数多くいました。しかし、直接戦って世界の最新技術に触れたことで、これが実地教育となり、目が開かれた者が多くなったのです。
このことが薩摩藩をして、明治維新の立役者に成長させた要因になりました。
諸外国の軍艦と直接戦うことで意識が変わったのは、長州藩も同じです。
生麦事件以降における国内の諸勢力の対応を見るに、やがて弱腰の幕府が倒れ、戦いも辞さなかった薩摩藩や長州藩が興隆していったのは、当然のことだと感じられます。


