砲撃開始
イギリス艦隊の行動を受け、薩摩藩は攻撃の意志を固めます。
そして老人や子ども、婦女らの非戦闘員に、市街地からの避難を命じました。
一方で砲台の兵士たちは、藩の汽船がイギリス艦隊に拿捕される様子を遠くから見ており、これを悔しく思って戦意を高めていました。
このため、開戦命令を受け取るや、勇躍して砲撃を開始します。
イギリス艦隊は薩摩藩の側から積極的に攻撃をしかけてくるとは予想しておらず、砲台の射程範囲の中で、のんきに停泊していました。
さらに旗艦のユーリアルス号においては、幕府から賠償金として受け取った、重たい金貨や銀貨が入った箱を弾薬庫の前に、積み上げたままにしています。
このために攻撃を受けても、片付けに手間取ってしまい、反撃を開始するまでに2時間も要することになりました。
それまでずっと弱腰の幕府とばかり交渉をしていましたので、薩摩藩も同様であろうと思い、油断しきっていたのでしょう。
このため、当初は薩摩側が優勢となります。

【薩英戦争の様子】
暴風雨の影響
開戦したのは旧暦の7月2日(今の暦だと8月15日)でしたが、この日は台風の影響で暴風雨が吹き荒れ、海上も大荒れとなっていました。
このことも薩摩側に有利に働きます。
イギリス艦隊は攻撃を受けるや、単縦陣を作り、砲台に対して猛烈な反撃を浴びせました。
しかし波が荒く、このために船が常に激しく上下動し、すぐには大砲の照準を適切に定めることができません。
これに対し、波に揺られることのない砲台の守備兵たちは、訓練によってどのように撃てばどこに着弾するかを把握していましたので、命中弾が多くなり、イギリス艦隊に少なからぬ損害を与えました。
そして一弾がユーリアルス号の艦橋付近に命中し、艦長のジョスリング大佐を戦死させ、キューバー司令官を負傷させます。
さらには三番砲のすぐ側にも砲弾が命中したことで、その付近にいた兵士と、砲兵の全てを死傷させ、大きな損害を与えています。
これらの薩摩側の攻撃の結果、イギリス側の死傷者は総計で63名にも及びました。(戦死は13名)
そして砲艦のレースホース号が大破し、他にも2艦が中破しています。
この事態を受け、イギリス側は休戦を要請するために白旗を掲げましたが、薩摩側はその意味を理解できなかったために戦闘が継続された、とも言われています。

【日本側の絵巻物で描かれた戦いの様子 斜めの線は風雨を現していると思われる】
薩摩側の被害
こうして薩摩の砲台はその威力を発揮しましたが、態勢を立て直したイギリス艦隊の反撃を受け、やがてそのほとんどが破壊されてしまいました。
イギリス海軍は当時、世界最強とうたわれていましたが、その評判に違わず射撃は正確で、命中率が非常に高かったのです。
さらに砲台のみならず、集成館という、薩摩藩が多額の費用を投じて築いた武器や火薬、ガラスや機械などを製造する近代工場群も破壊されました。
そして港に停泊していた、交易用の琉球船など5隻が焼き払われ、拿捕されていた汽船3隻も沈没させられてしまいます。
その上、鹿児島の市街地付近にロケット弾が撃ち込まれ、これが火薬庫を炎上させました。
強風が吹いていたことから、この火はすぐに市街地に延焼し、鹿児島城下の10分の1が焼失するという、甚大な被害を与えています。
人的な被害は20名程度とイギリス側よりも少なかったのですが、この戦闘によって薩摩藩が負った経済的な損失は、莫大なものとなりました。
なお、薩摩側の死傷者が少なかったのは、先代の斉彬があらかじめ、沿岸や市街地に海上からの攻撃に備えた防壁を築かせており、これが銃弾や火災の広がりを防いだから、という理由がありました。
斉彬には先見の明があり、戦争の5年前、1858年に亡くなっていましたが、いずれはこういった事態が起こることを予測していたのです。
市街地への攻撃については、ひとりの商人の殺害事件に対する報復としては過剰すぎるとして、後にイギリス議会でキューバー司令官が責任を追及される事態へと発展しています。
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