イギリス艦隊の撤退
これらの交戦によってイギリス艦はいずれも大小の損傷を負い、初期の目的を果たすのは不可能となります。
ニールたちは、艦隊の姿を見せつけるだけで薩摩藩は屈服するだろうと思い込み、おごり高ぶっており、それが思わぬ損害を招いたのです。
このために戦闘準備も怠っており、燃料や弾薬の用意が十分ではありませんでした。
外交官であるニールはイギリスの体面を考慮し、「このまま撤退すれば、薩摩藩は我らを撃退したと誇るだろう」と語り、「それを防ぐために兵士たちを上陸させ、市街地を占領すべきである」と主張しました。
しかしキューバーは物資と兵力の不足を理由にこれに反対し、撤退することを主張します。
市街地と言っても、その住民の大半は武士であり、薩摩藩の陸戦兵力は最大で2万程度でした。
そしてイギリスのものより質は劣っていたにせよ、西洋式の大砲や小銃も導入済みでしたので、ある程度は対抗できるだけの火力を備えていました。
このため、もしも上陸して戦いを行っていれば、備えが十分でないイギリス軍の損害は相当に大きなものとなり、壊滅する可能性も高かったと思われます。
このあたりはキューバーの判断の方が、的確だったのだと言えます。
結局は撤退することが決定され、翌7月3日になると、戦死した者たちを水葬にして弔い、壊れた艦に応急処置を施してから、イギリス艦隊は横浜に帰港しました。
艦隊が去って行く様子を見た薩摩藩兵たちは勝利を祝い、勝ち鬨をあげてから解散しています。
薩摩の側は、この時点ではイギリス艦隊の被害を正確に把握しておらず、戦いが続けば被害が拡大するのではないかと危惧されてもいました。
しかし艦長らの遺骸が海岸に流れ着いたことで、イギリス艦隊に与えた損害が少なくはなかったのだと知り、安堵したということです。
薩摩藩は称賛を受ける
薩摩藩主・茂久はことの顛末を朝廷に報告すると、孝明天皇から称賛を受けました。
当時の日本人たちは、度重なる諸外国の軍事的な圧迫に対し、相当な反発心を抱いていましたので、薩摩藩の健闘の報を聞いて喜び、溜飲を下げています。
宇和島藩の前藩主・伊達宗城など、諸藩からも茂久にあて、薩摩藩の武勇を激賞する書簡が寄せられており、薩摩藩への国内からの支持が高まっていきました。
一方で、幕府は薩摩藩の砲台が破壊され、少なからぬ損害を受けたことを知り、密かに喜んでいた、という話が残っています。
講和に向かう
戦いが終わった後、薩摩藩はイギリス艦隊が再度襲来することを予期し、砲台や集成館の修復を急ぎました。
そして昼夜兼行で大小砲の製造を行い、火薬局も急ぎ、砲弾の製造・備蓄を開始します。
さらに、藩主自らが諸隊の隊長を招いて祝宴を開き、将兵の士気を高めました。
一方で、薩摩藩の中でも見識のある者たちは、直接イギリスと戦ったことにより、その艦船と大砲の威力は薩摩藩よりも勝っていると、冷静にその強大さを認めます。
イギリスの大砲は薩摩藩のものよりもはるかに射程が長く、威力が強く、水兵は武器の運用技術に優れていました。
(イギリスの大砲の射程は3600mで、薩摩側は900m程度であり、4倍もの差がありました)
このため、大久保利通や小松帯刀ら、藩の要路にあった者たちは、このまま戦いを続ければ、やがて薩摩藩は滅亡してしまうであろうと主張し、イギリスとの講和を推進すべきだと説いて回りました。
薩摩藩士たちの意識の変化
この頃の薩摩藩では、反動的な空気が強くなっていて、かつて導入されていた西洋式の小銃を用いず、火縄銃に先祖返りするようなことが行われていました。
しかし風雨の影響で全く役に立たず、やはり新しい技術を導入していかなければならないと考える者が増え、保守的な空気が一掃されていきました。
これによって、外国人を侮蔑することなく、彼らの持つ力を吸収していくべきである、という考えが薩摩藩では支配的になり、単純な攘夷思想の持ち主が減少していきます。
こうした政情の変化によって、大久保たちの講和論を支持者する者も増えていきました。
薩摩藩の首脳部も同じ考えを持っていましたが、すぐに講和の道を取るのは、体面上難しくもありました。
その時、支藩の佐土原藩主・島津忠寛が本藩の行く末を案じ、イギリスとの講和を主張する使者を送ってきます。
このため、薩摩藩としてはまだ戦えるが、親族である佐土原藩主の勧告を受け入れる、という形で和平交渉に乗り出しました。
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