事件の背景
このような血なまぐさい事件が発生した原因は、イギリス人たちが日本の風習を知らず、薩摩藩士たちを挑発するような行動を取ってしまったことにあります。
薩摩藩士たちは事前に警告をしていたわけで、殺害する必要があったかは別として、一方的に非があるとは言えないでしょう。
さらにリチャードソンは上海で、中国人労働者を見下して暴慢な態度を取っていたという話もあり、日本人も同様の存在だと見なし、遠慮や敬意を払うことがなかった、と言われています。
これが下馬をせず、行列に乗り入れてしまった原因になっています。
これに対し薩摩藩士たちの中には、外国人を排斥して日本を守ろうとする、攘夷思想の持ち主もいました。
特に海江田信義はこの思想を主唱していた藤田東湖に私淑しており、濃厚な攘夷派の徒でした。
このため、イギリス人たちが日本の風習を無視し、行列に入り込んできた際に激昂し、殺害の意図を持ったのだと思われます。
そして横浜が東海道の側にある以上、いずれ大名行列と外国人の一行が行き会い、軋轢が発生する可能性は高いものでした。
居留民は十里(40km)四方までは遊歩してもよい、と条約で定められていましたので、外出した居留民が攘夷思想を持つ武士に遭遇し、襲われる事件は既にいくつか起きています。
にも関わらず、幕府が適切な対策を取っていなかったことにも問題がありました。
これらの要因によって、薩摩藩士がイギリス商人を生麦で殺害する、という事件が発生したのでした。
事件後
この事件が伝わると、諸外国の軍艦から武装水兵が上陸し、居留地や領事館の警備を固めています。
一方、憔悴したボロデールから事情を聞いた横浜の居留民たちは激怒し、神奈川領事のヴィスが無断で公使館の衛兵を率い、街道に出てリチャードソンの遺体を収容しました。
そして居留地の主だった者たちは、対応を協議するために会議を開きます。
その席では、程ヶ谷に宿をとっている久光を襲撃し、捕縛すべきだと主張する者たちも現れました。
そしてフランス公使のベルクールらが各国の使節や司令官たちを訪れ、この強硬策に賛同するようにと訴えて回ります。
しかし、イギリス代理公使のニールは、居留民保護のために日本に滞在している戦力だけでは、そのような行動をとるのは難しいと、冷静に判断を下していました。
(この時はオールコックが公使でしたが、日本から離れていたため、ニールが代わって対応しています。)
ニールは強硬論を抑えるために働きかけて回り、日本との間に「外国人に対して罪を犯した日本人は、日本の司直がこれをただし、処罰する」という条約を結んでいることを人々に思い起こさせ、我々には犯人を逮捕・処罰する権限がない、と指摘します。
そして日本と本格的な戦いになった場合、現状では戦力が不足しており、居留民を守り切れるかわからない、と説いたことで、強硬論はおさまっていきました。
感情的になっていた居留民たちは、当初ニールを強く非難しましたが、時間が経過するにつれて頭が冷えていき、ニールを支持するようになっていきます。
こうして意見をまとめたニールは「幕府に対し、犯人の逮捕と処罰を要請する」と述べ、会議はこの方向でまとまりました。
イギリス政府は、感情的な意見に流されなかったニールの沈着な対応を高く評価し、後に勲章を与えています。

【ニールの肖像画】
薩摩藩と幕府の動き
一方、薩摩藩の側でも、リチャードソンを殺害した奈良原や海江田が気炎を上げ、おそらく外国人どもはこちらを襲撃してくるだろうから、先手を打って居留地を襲撃し、焦土に変えるべきである、などと主張していました。
これを大久保一蔵(後の利通)が説得して抑え、宿場の警備を厳重に行いつつ、一夜を過ごします。
こういった状況だったことから、ニールや大久保が対応を誤れば、薩摩藩とイギリス・フランス軍の間で戦闘が行われていた可能性もありました。
事件を知った神奈川奉行・阿部正外は驚愕し、幕府の役人を程ヶ谷に差し向け、事情を聞き取るとともに、事件が決着するまで宿場に滞在するようにと要請しました。
しかし、薩摩藩はこれを適当にあしらい、翌朝には程ヶ谷を出発して京に向かってしまいます。
薩摩藩はこの時、「生麦を通行していた際に、3、4名の浪人たちが外国人たちを襲撃し、行列にまぎれて逃げ、行方不明になってしまった」という、見え透いた嘘をつきました。
薩摩藩が平然とこのような言い逃れをしたのは、既に幕府の権威が低下しており、遠慮がなくなっていたからです。
しかし、さすがにこれではまずいと思う者もおり、翌日に江戸の留守居役・西筑右衛門が、「岡野新助という足軽がイギリス人を殺傷し、逃亡して行方不明になっている」と報告を改めました。
しかしこの岡野新助は架空の人物であり、薩摩藩が幕府を軽く見ていたことに変わりはありませんでした。
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