交渉の開始
こうして迎撃態勢を取った上で、薩摩藩は使者をイギリス艦隊の旗艦・ユーリアルス号に送り、来航の意向を問いただしました。
ニールは使者たちに会い、リチャードソンを殺害した犯人を、イギリス海軍将校の前で処刑することと、賠償金を支払うことを要求します。
これに対し薩摩藩側は、書面のやりとりでは交渉が進まぬため、ニールや、艦隊司令のキューバーに対し、上陸して交渉してくれないか、と求めました。
もしも上陸したら、これを拘束した上で交渉を進め、薩摩側の意向を受け入れなければ捕虜にしてしまおう、というのが薩摩藩の企みだったと言われています。
しかしニールたちは薩摩藩の意図を警戒しており、上陸には同意しませんでした。
このようにして、初めから薩摩の側は、開戦をも辞さない態度で交渉を行っていたのです。
イギリス艦奪取計画
こうしてニールたちの拘束に失敗した薩摩藩は、次なる手として、イギリス艦を襲撃して、これを奪い取ることを企図します。
この実行を命じられたのが、生麦事件を起こした奈良原や海江田でした。
彼らはこの策を自分たちから久光に提案したのですが、腹心の大久保らが賛同したことから、慎重な久光もこれを承認しました。
奈良原と海江田は80名の藩士たちとともに決死隊を編制し、商人に扮装した上で、8艘の船に分乗します。
そしてそれぞれにイギリス艦に乗り込み、白兵戦を行って奪取しようとしました。
しかしイギリス艦隊は商人(の扮装をした藩士たち)がこぎ寄せてくることを怪しみ、乗船を許さなかったために、この計画は失敗しています。
唯一、交渉の返答をするための書簡を携えた者たちだけは、ユーリアルス号に乗艦できましたが、大勢でおしかけたことで警戒されており、銃剣で武装した水兵たちの厳重な監視を受けたため、目的を果たせませんでした。
また、陸上から空砲を鳴らしたら、それを合図にニールやキューバーを襲撃する予定だったのですが、これが鳴らされることはありませんでした。
おそらく、遠見番所から船上の様子を見て、策が失敗する可能性が高いと判断されていたのでしょう。
イギリスの軍人たちは戦い慣れていましたので、薩摩の動きは艦隊の偵察のためにあるのだろうと察知し、投錨地をやや陸から離れた地点に変更します。
しかしそれでも、その地点は砲台の射程範囲の中にありました。
こうして時間が過ぎる内に、薩摩側の沿岸砲台は、すっかりと戦闘準備を完了していました。
開戦
ここに至り、薩摩藩の首脳部も開戦の意志を固め、藩主・島津茂久の名でニールに対し、イギリス政府の要求を拒絶する旨を伝えました。
これを受けてニールもまた軍事力の行使を決断し、司令官のキューバーに対し、薩摩藩の汽船の拿捕を依頼しました。
あらかじめイギリス政府は、薩摩藩が欧州から30万ドル(現在価値で45億円)をかけ,
高価な汽船を購入したことを調べあげており、これを奪えば戦意をくじくことができるだろう、とニールに訓令を与えていたのです。
イギリスからはるかに遠い、アジアの一諸侯の動向をも詳細に把握していたわけで、このあたり、当時のイギリスの情報収集能力は恐るべきものがあります。
この訓令通りにニールは3隻の汽船を拿捕させ、これをきっかけとして、ついに薩英戦争が開始されました。
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