魯粛は孫権に仕え、帝王になるように勧めた人物です。
曹操に攻められた際には、周瑜とともに抗戦を主張し、戦いを勝利に導きました。
その後は荊州における呉の勢力の確立に尽力し、孫権が皇帝になるための道を切り開きます。
一方では劉備への支援を積極的に行ったために、蜀の建国にも手を貸してしまうことになりました。
この文章では、そんな魯粛の生涯を書いています。
【魯粛の肖像画】
徐州に生まれる
魯粛は字を子敬といい、徐州の臨淮郡東城の出身です。
172年に誕生しました。
生まれるとすぐに父親が亡くなったため、祖母と一緒に暮らします。
「容貌は魁偉だった」と記されており、見た目からして、ただものではない雰囲気をまとっていたようです。
気前よくふるまい、自分を鍛える
魯粛の家は裕福だったのですが、彼は財産に執着せず、田畑を売り払い、困窮している人々に財貨を分け与えます。
そして優れた人士と交わり、郷里の人々から信頼されるように努めました。
一方で魯粛は、自ら剣と弓、そして馬術を学びつつ、若者たちを集めて衣食を与え、ともに狩猟を行いながら、ひそかに兵法の訓練も行います。
このように、魯粛は家産を傾けて、間もなく訪れる戦乱の時代に対応するための準備をしていたのでした。
その様子を見た土地の父老たちは「魯家は代々衰えてきていたが、とうとうこんなおかしな子が生まれてしまった」と言って、眉をひそませました。
しかし魯粛こそが、正しく時代の流れを理解していたのです。
周瑜が訪ねてくる
魯粛の気前のよさの評判が広まっていくと、後に呉の重臣となる周瑜が、魯粛の元を訪ねてきます。
この頃の周瑜は、袁術から孫策に主を変えようとしているところで、居巣の県令になったばかりの時期でした。
周瑜は数百人を引きつれて魯粛を訪ね、挨拶をし、資金や食料の援助を求めてきます。
魯粛の家にはこの時、米を納めた二つの蔵がありました。
それぞれに三千斛(約54万リットル)という大量の米が収まっていましたが、魯粛はひとつの蔵の分を、そっくり周瑜に与えます。
これによって周瑜は、魯粛が非凡な人物だと知り、親しく交際するようになりました。
この両者の結びつきが、後に赤壁の戦いに大きな影響を及ぼすことになります。
袁術に取り立てられるも、江東に移住する
やがて袁術もまた魯粛の評判を聞き、東城の県令を担当するように言ってきます。
しかし魯粛は、袁術はやることが支離滅裂で、共に大事を成せるような人間ではないとみなしていました。
このため、老人や子供たちの手を引き、かねてより訓練をさせておいた百人の若者たちと共に、居巣に移住して周瑜の元に身を寄せます。
そして周瑜が孫策とともに長江を渡ると、それにともなって江東に移住することにしました。
追っ手を追い返す
この時に魯粛は、人々にこう呼びかけます。
「漢の朝廷は統治能力を失い、賊たちが横暴を働くようになった。
このため、淮水や泗水のあたりは子孫を残し、世に留めるべき場所ではなくなってしまった。
聞くところでは、江東は肥沃な土地が万里に広がり、民は富み兵は強く、難を避けるのに適した土地のようだ。
私とともにかの楽土に行き、時勢の変化を見定めようとする者はおらぬか」
すると魯粛の部下百名を含む、三百人の男女がこれに賛同し、江東に移ることにします。
弱い者を先頭に立て、壮健なものを最後にして進んでいると、州の役所から魯粛たちを引き留めるため、騎乗の者たちが追ってきました。
魯粛は移住の許可を、役所に取っていなかったのでしょう。
すると魯粛は弓を引き絞りつつ、追っ手にこう告げます。
「あなた方もいい大人なのだから、時勢の流れは理解しているだろう。
天下に兵乱が広がり、手柄があっても賞されることがなくなり、また我々を追跡しなくとも、罰せられることもない。
それなのにどうして我々に干渉しようとするのか」
そう言いながら、盾を地面に突き立てると、矢を射かけて貫いて見せました。
騎乗の者たちは、魯粛の強弓を目の当たりにし、その言葉はもっともだと思ったので、連れだって引き返していきます。
こうして魯粛は長江を無事に渡ると、江東を制しつつあった孫策に目通りしました。
すると孫策もまた魯粛の非凡さを認め、賓客として待遇します。
こうして魯粛は徐州から揚州に移住し、ひとまずは呉に関わるようになったのでした。
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