劉曄の意見
劉曄だけが、これに反論をしました。
「蜀は国土が小さく、力は弱いと言えども、劉備は武威をもって国力を高めようとはかっています。
このため、必ずや軍勢を動かし、蜀にも充分に力があることを誇示しようとするでしょう。
それに加え、関羽と劉備の関係は、形式は君臣ですが、実質は父子と同様です。
関羽が殺害されたのに、軍を動かして彼のために復讐をしなければ、最後まで恩愛を貫き通すことができなくなります。
劉備が動かないとは思えません」
後に劉備は、劉曄が予測した通り、大軍を動員して呉に攻め込みました。
呉の動向を予測する
呉は劉備に攻め込まれると、全力をあげて対処しつつ、魏に使者を派遣し、藩国(下位の国)を名のって臣従する姿勢を見せました。
朝臣たちはみなそのことを祝いますが、劉曄だけは次のように述べます。
「呉は長江や漢水をへだてて割拠しており、臣従するつもりなどありません。
陛下は舜(古代の帝王)に並ぶ徳を備えておられますが、いまだ彼らの心に、その影響は届いていません。
呉は劉備に攻め込まれ、難儀しているから臣従を申し出たのにすぎず、信用には値しません。
彼らは外から危機が迫り、内では困難に遭遇したので、はじめてこの使者を出したのです。
その困窮につけ入り、攻撃をしかけて領土を奪い取るのがよろしいでしょう。
この敵を一日放っておけば、今後数代に渡って災いをもたらすことになります。
よくお考えください」
しかし文帝はこの進言を取り入れず、蜀と呉の戦いを静観しました。
そして劉備が夷陵で敗退すると、呉が魏に示していた礼節や敬意は、あっさりと失われてしまいます。
文帝が呉への攻撃を企図する
呉に裏切られたため、文帝は軍をおこして彼らを討伐する計画を立てました。
劉曄はこれにも反対の意見を述べます。
「彼らは劉備に勝利し、期待通りの結果を手に入れました。
このため、今は国がひとつにまとまっており、河や湖といった天然の要害によって、我々と隔てられています。
これを攻略するのは困難です」
しかし文帝はまたも聞き入れず、224年に遠征を実行に移します。
蜀と呉が戦っていた時に、劉曄が言うようにつけいればよかったのですが、それから時が過ぎており、すでに勝機は失われていました。
孫権が来るかをたずねる
文帝は広陵の泗口にまで行幸し、荊州や揚州の諸軍を進撃させました。
そして臣下たちを集め「孫権は自らやって来るであろうか」と質問をします。
臣下たちは「陛下がご親征されましたからには、孫権は恐れを抱き、必ず国をあげて対応してくるでしょう。
そして臣下に大軍を預けることはせず、自らやってくるでしょう」と答えました。
これに対し、劉曄は言いました。
「孫権は、陛下が天子という存在の重さをもって自分を牽制するだけで、河を越えて攻め込んでくるのは別の将軍の役割だと考えているでしょう。
このため、兵をおさえて事態の推移を見守り、行動を起こすことはないと思います」
文帝の御車は数日の間とどまりましたが、劉曄が予測した通り、孫権はやってきませんでした。
より積極的な態度を求められる
このため、文帝は軍を引き返させます。
そして劉曄に言いました。
「卿の予想は正しかった。
私のために呉・蜀を滅ぼすことを念頭に起き、助言をしてほしい。
ただ彼らの考えを悟るだけではだめだ」
先に劉曄は、呉と蜀が戦っていた時に出兵をするように意見を述べ、それが呉を滅ぼすための絶好の策だったのですが、文帝は採用しませんでした。
このために魏の勢力を拡大することはできず、軍事面ではさしたる事績を残せぬまま、病で世を去っています。
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