流れ矢に当たって死去する
その後、劉備軍は214年に雒城を攻撃しましたが、ここで激しい抵抗を受けます。
守将の張任が劉備に徹底抗戦をして来たため、攻城戦が長引いていきました。
これに焦りを感じたのか、龐統は自ら軍勢を率いて城を攻撃しましたが、やがて流れ矢にあたり、あっけなく戦死してしまいます。
この時、龐統はまだ36才でした。
劉備は龐統の死を大変に悲しみ、彼の話をするたびに涙を流しました。
そして龐統の功績に報いるために、その父を議郎に任命し、やがて諫議大夫(主君の誤りを指摘する役割)に昇進させます。
この辞令は諸葛亮が自ら授与しました。
そして龐統には関内候の爵位を追贈し、靖候という諡号も贈っています。
実に手厚い措置であり、劉備が龐統を大事に思っていたことが、よく伝わってきます。
龐統の親類
龐統の子の龐宏は飾り気がなく、龐統と同じく、人の批評をすることを好んでいました。
しかし父ほどの人徳は備えておらず、尚書令(皇帝の側近)の陳祇を軽んじ、不遜な態度を取ったため、やがて涪陵の太守を免職になっています。
他には龐統の弟・龐林も劉備に仕えており、兄と同じく荊州の治中従事に就任しました。
そして夷陵の戦いの際には、鎮北将軍・黄権に従って参戦しています。
しかし、劉備が大敗して蜀軍がばらばらになると、黄権の部隊は孤立します。
黄権はやむなく魏に降伏し、龐林もこれに従いました。
その後は魏に仕えて立身し、列侯の爵位を得て、鉅鹿の太守になっています。
龐林の妻の話
余談ですが、この龐林の妻は、曹操が荊州に侵攻した際に、龐林と離ればなれになってしまいました。
このため、妻はひとりで幼い娘を、十数年に渡って養育しています。
このような経緯があったため、龐林が黄権に従って魏に降伏すると、ようやく親子は、そろって一緒に暮らすことができるようになったのでした。
怪我の功名、とも言うべき事態です。
この話を聞いた魏の皇帝・曹丕は、龐林の妻は賢婦だとして称賛しました。
そして立派な寝台や衣服を下賜して、その節義を表彰しています。
龐統評
三国志の著者・陳寿は、龐統と法正を並べて評しています。
「龐統は日頃から人物評価をするのを好んでおり、経学と策謀に優れていた。
そして当時、荊州や楚の人々から秀でた人物だと評価されていた。
法正は成功と失敗をはっきり見きわめ、並外れた計画や術策を立てるのを得意としていた。
しかしながら人徳についての称賛はなかった。
彼らを魏の臣下にあてはめると、龐統は荀彧や荀攸、法正は程昱や郭嘉のともがらであろうか」
(法正は龐統と同じく、益州攻略戦の時期から劉備に仕えた参謀です)
ここで龐統は荀彧に似ていると評価されていますが、荀彧もまた単なる参謀ではなく、曹操に全体の戦略を考えて助言することができる、大きな知性の持ち主でした。
そして優れた人材を見いだし、曹操に推薦する仕事も数多く行っています。
それによって曹操の陣営はおおいに強化されたのですが、龐統にも同じ才能がありました。
しかし龐統は益州攻略戦の途中で戦死してしまったため、劉備陣営の人材を充実させる仕事は、ほとんどできていません。
そういった意味でも龐統の早い死は、劉備にとって大きな痛手だったと思われます。
もしも龐統が生きていたら、蜀がその後、人材不足に悩まされることはなかったかもしれません。
また、龐統がいなくなったことで、かわって諸葛亮が益州に移動しましたが、この結果、荊州の人員が手薄となり、関羽の敗北を招く原因にもなっています。
龐統の不在は劉備の戦略に、大きな負の影響を及ぼしたのでした。
龐統が劉備に仕えたのはわずかに4年ほどでしたが、建国の功臣として高く評価され、後に関羽らと一緒に、260年に改めて諡号を追贈されています。
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