呂布奉先 飛将と呼ばれ、丁原や董卓を裏切った最強武将の生涯

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侍女との密通が発覚することを恐れる

呂布は董卓の奥御殿の警備も任されていたのですが、やがて董卓に仕える侍女と密通をしてしまいます。

呂布はそれが発覚し、董卓の不興を買うことを恐れるようになり、落ちつかない日々を過ごすことになりました。

『三国志演義』では、この侍女には『貂蝉ちょうせん』という名が与えられ、絶世の美女だった、という設定が付与されています。

正史においては、この侍女の名前は記録されていません。

王允に董卓暗殺の計画を明かされる

この時に司徒しと(土木や財政などを司る、最高位の大臣)の地位にあった王允おういんは、呂布と同郷の出身でした。

呂布が武勇に優れていたことから、王允は呂布を丁重に扱って交際し、二人の間にはかねてより、良好なつながりがありました。

王允は誠実な性格と、優れた行政手腕を評価されていた人物で、幼い皇帝から頼りにされ、董卓ですらも信頼を寄せています。

しかし王允は、横暴な政治を行い、世を混乱の渦中に陥れた董卓を内心で憎んでおり、機会があれば董卓を排除しようと計画していました。

その王允の元を呂布が訪れ、侍女との密通が発覚するのを恐れていることと、董卓にあやうく殺されかけたことなどを告げます。

そして「私はこの先、どうすればいいでしょうか」と相談を持ちかけました。

すると王允はこれを好機と捉え、呂布に董卓の暗殺計画を打ち明け、仲間に引き入れようとします。

呂布は董卓の身辺警護をしていましたので、もしも仲間に引き込めれば、その時点で計画は成功したも同然でした。

話をもちかけられた呂布は「私と董卓は、なんといっても親子の間柄ですから」と言って断ろうとします。

これに対し、王允は「あなたの姓は呂であり、董卓と血縁関係はありません。今は自分の命を守ることに精一杯なのに、親子だなどと言っていられますか?」と述べ、呂布に叛意を促しました。

すると呂布は、王允の言うことはもっともだと思い、董卓の暗殺に加担することを決意します。

董卓を暗殺する

このころに、皇帝の病が癒えるという吉事があり、朝臣たちが宮廷に参内し、お祝いをするという行事が発生しました。

王允たちはこの機会に、いよいよ董卓暗殺を実行に移すことにします。

董卓もまたこの行事に招かれており、参内しようとしたところ、なぜか馬が先に進もうとしませんでした。

これを不吉に感じた董卓は、参内をとりやめようとします。

しかし呂布が、「ぜひ参内なされますように」と強く勧めたので、董卓はいぶかしさを感じながらも、宮中に向かいます。

そして董卓が宮殿の門にたどり着くと、門が閉鎖されており、中に入れませんでした。

門を固めていたのは、呂布の部下の李粛りしゅくだったので、董卓は怒って呂布を呼びつけます。

すると呂布は懐から、皇帝から授けられた董卓誅殺の詔を取り出し、「これが詔だ!」と叫びつつ、董卓に刃を突き立てました。

こうして呂布は丁原に続き、二人目の主君をも殺害したのでした。

董卓はその後、屍を市場にさらされることになります。

将軍位を得るが、董卓の残党に攻め込まれる

董卓が暗殺されると、間もなくその一族もことごとく誅殺され、長安からは、いったん董卓の勢力が排除されます。

呂布はその功績によって、奮武将軍の地位を与えられ、爵位は温候に昇進しました。

そして三公(朝臣の最高位)と同じ儀礼を与えられ、王允らとともに、朝政に参加する資格をも得ることになります。

こうして呂布は大きく身分を上昇させましたが、長安の外には、まだ董卓勢力の残党が残っており、情勢は安定していませんでした。

呂布は并州出身だったこともあり、董卓の基盤であった涼州の武将たちとは関係がよくなく、董卓暗殺後は、彼らへの憎しみを露わにします。

王允もまた并州の出身であり、乱暴な彼らを嫌っていたことから、涼州勢力との対立が深まっていきました。

涼州側は、董卓に仕えていた李確りかく郭汜かくしが残党をとりまとめ、やがて10万もの兵力を有するようになります。

すると軍師の賈詡かくが李確らに「長安の兵力はこちらよりも劣っており、まだ体制は固まっていませんので、今のうちに攻め落とし、朝廷を支配するのがよいでしょう」と勧めました。

李確らはこの策を受け入れ、長安に向かって進軍を開始します。

郭汜に一騎打ちを挑む

この時の呂布の兵力は不明ですが、すぐに苦戦に陥ったことから、李確らに比べ、かなり劣っていたのは確かなようです。

このため、呂布は状況を挽回しようと思い、城門を開いて打って出て、郭汜に一騎打ちを申し入れました。

すると郭汜がこれに応じたので、呂布は郭汜を圧倒し、矛を突き刺そうとします。

しかし後ろに控えていた騎兵が郭汜を助け、逃げ出してしまいました。

このために呂布は郭汜を討ち取り損ね、精強さを見せつけはしたものの、劣勢を覆すことはできずに終わっています。

個人の武勇のみでは、それがいくら優れていても、戦況そのものをひっくり返すには至らない、ということなのでしょう。

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