張邈とともに兗州を奪う
こうして呂布が河内に滞在するようになると、やがて呂布の力を用い、兗州を奪取しようと計画する者たちが現れました。
この時の兗州は曹操が支配していましたが、反乱を計画したのは、曹操の参謀だった陳宮でした。
陳宮は陳留太守で、曹操の友人でもあった張邈に対し、「あなたは英雄として通用する人物なのに、曹操に従っています。なんとも、もったいないことです。
ただいま兗州の軍勢は徐州に出陣しており、曹操の本拠はがら空きとなっています。
呂布は勇敢で、敵なしの武将です。彼を迎え入れ、ともに兗州を治めれば、天下の覇権を争うための、またとない機会を得られるでしょう」と述べ、曹操への反乱をそそのかしました。
張邈は曹操の友人でしたが、一方で袁紹との関係は最悪でした。
これはかつて張邈が、連合軍の盟主となった袁紹の方針を批判し、怒りを買って殺されそうになった、という経緯があったからです。
そしてこの時期の曹操は袁紹と同盟関係にあり、このため、いつか曹操が袁紹のために自分を殺すのではないかと、張邈は怖れを抱いていたのでした。
張邈はその恐怖から逃れるために、陳宮の誘いに乗り、呂布とともに兗州を曹操から奪うことを決断します。
張邈は軍勢を送って呂布を迎えると、兗州牧(長官)の地位を授けました。
そして曹操の本拠である濮陽を占拠し、守りを固めます。
すると三つの県を残して、その他の地域はすべて張邈と呂布に呼応し、兗州の大半を制することになったのでした。
曹操と戦う
呂布は濮陽に入ると、兗州の軍勢を率いるようになりました。
そして徐州から取って返してきた曹操と戦います。
これは、当時の最強格の武将同士の激突であり、そう簡単に決着はつきませんでした。
まず、曹操が軍を進めて濮陽に攻撃をしかけると、呂布は騎兵を率いてこれを迎撃します。
すると曹操の陣は呂布に切り崩され、大混乱に陥りました。
曹操は火に囲まれ、それを馬で突っ切って逃れようとしますが、落馬してしまい、左の手のひらにやけどを負います。
この時に楼異という部下が曹操を助け起こして馬に乗せたので、曹操はかろうじて撤退に成功しました。
こうして呂布は曹操を討ち破ったのですが、やがて帯陣が百日に及ぶと、イナゴが湧き上がり、農作物に甚大な被害を与えます。
このため、食糧不足に陥った両軍は引きあげ、最初の戦いは呂布の優勢に終わりました。
なお、この戦いの間に、曹操は呂布に捕縛されそうになったことがあります。
しかし、呂布が曹操だと気がつかなかったので、曹操は「あそこにいる、黄色の馬に乗って逃げていくのが曹操です」と言って呂布をだまし、危機を切り抜けた、という逸話があります。
このことから、曹操はその身が危うくなるほどに、苦戦をしたことがわかります。
呂布は騎兵を率いて正面から戦えば、曹操にすら勝つことができると、その実力を証明したのでした。
【曹操を追い立てる呂布の姿】
翌年は曹操が勝利する
その年はそのまま、食糧不足のために戦いがありませんでしたが、翌195年になると、対戦が再開されています。
呂布は一万の兵を率い、鉅野で曹操と対決しました。
この時に曹操の兵たちは、麦を刈りに出払っており、手もとには千人程度しか残っていませんでした。
このために曹操は婦女子まで動員し、屯営の垣根を守らせています。
呂布はそこに攻め寄せましたが、屯営の南に樹木がうっそうと茂る森があり、そこに曹操が伏兵をしかけているのではないかと疑いました。
なので呂布は「曹操は計略の多い男だ。伏兵の中に入ってはならぬぞ」と部下たちに言い、いったん兵を引き下がらせます。
その様子を見た曹操は、南の森ではなく、別の場所に伏兵をしかけることを計画します。
翌日になり、呂布が森を避けつつ曹操の屯営に進軍すると、曹操は軽装の兵を出撃させ、迎え討ちました。
呂布は敵が少数だったことから、一気に討ち破ろうと思い、自軍をどんどんと前進させます。
すると側面にある堤防の上に、突如として曹操の軍勢が姿を現し、歩兵と騎兵が一斉に進軍してきました。
曹操はあらかじめ、呂布が警戒をしていなかった堤防の影に、伏兵を潜ませていたのです。
こうして挟み撃ちにあった呂布の軍勢は討ち破られ、呂布は陣営にまで追撃を受けるほどの大敗を喫しました。
そして呂布が夜陰に紛れて逃走すると、曹操は兗州各地の拠点を奪還し、情勢を逆転させます。
もはや挽回が難しくなったと悟った呂布は、あっさりと兗州を捨て、徐州の劉備の元に逃走しました。
こうして兗州における曹操と呂布の対決は、曹操の勝利に終わりました。
正面きっての戦いでは呂布に分があり、計略を用いた戦いでは曹操に分があった、という結果になっています。
このあたりは両将の特徴が、よく現れた戦いだったのではないかと思われます。
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