呂布奉先 飛将と呼ばれ、丁原や董卓を裏切った最強武将の生涯

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陳珪の策により、袁術と敵対する

こうして袁術は劉備を討ち損ねたものの、彼もまた、呂布と敵対するのは得策ではないと思い、むしろ味方に引き入れようと考えるようになります。

このため、「呂布の娘を、自分の息子の妻にほしい」と申し入れました。

このころの袁術は、すでに皇帝を僭称しており、これによって漢王朝から朝敵とされ、各地の諸侯から敵視されるようになっていました。

ですので、少しでも味方を増やしたい、と望んだのです。

呂布は袁術が朝敵となっても気にしておらず、婚姻の話を承諾します。

このあたりを動き見るに、呂布は王朝など、飾り物のようなものだとしか思っていなかったのでしょう。

しかし徐州の実力者で、呂布の相談役になっていた陳珪ちんけいは、袁術と呂布が姻戚になり、徐州と揚州が連合すると、国家にとって重大なわずらいになるだろうと、危惧しました。

陳珪は、節操がない呂布に心から仕える気は毛頭なく、漢王朝のためを考えて行動を開始します。

陳珪は呂布に面会すると、「曹操は天子を迎え奉り、国政を補佐され、その輝かしい威光は当代を風靡ふうびしています。将軍は曹操と計画をともになされば、安定した勢力を築くことができるでしょう。しかし、袁術と婚姻を結べば、天下から不義の汚名を着せられ、積み重ねた卵のごとく、危険な状態を招くことになります」と述べました。

呂布も内心では、最初に袁術を訪ねた際に、拒絶されたことを恨んでいました。

このため、すでに娘を袁術の元に送っていましたが、あとを追いかけて連れ戻し、婚約を破棄します。

そして袁術が皇帝を名のった理由を呂布に説明しに来ていた、使者の韓胤かんいんを捕らえ、曹操の元に送りつけました。

すると曹操は、朝敵の一員である韓胤を、すぐに処刑します。

呂布のこの処置によって、当然ながら袁術は激怒し、呂布と敵対するようになりました。

こうして陳珪の策によって、呂布は袁術の敵となり、曹操と和解することになります。

左将軍となるも、内実は切り崩しをかけられる

曹操も徐州を押さえた呂布を、ひとまず自分の方に引きつけておくため、呂布に左将軍という高い地位を贈りました。

すると呂布はこれを喜び、陳珪の子である陳登ちんとうを、曹操の元に派遣します。

陳珪・陳登の親子は、内心では呂布は徐州の支配者にはふさわしくないと考えており、曹操に呂布を討伐させようと計画していました。

このため、陳登は曹操に面会すると、「呂布は武勇はあるものの、計画性がなく、軽々しく人についたり離れたりする、信用がならない者ですので、早く滅ぼす手立てを考えるべきです」と告げました。

曹操は「呂布は野蛮で人に懐かない、狼の子のような人間だ。いつまでも養っておくわけにはいくまい。討伐を成し遂げるために、君を頼りにさせてもらうぞ」と述べ、すぐに陳珪の官位を高め、陳登を広陵こうりょう太守に任命し、親子を自分の味方に引き込みました。

そして陳登が帰ろうとすると、「徐州のことは任せたぞ」と声をかけ、秘かに兵士たちをとりまとめ、内通をするようにと命じます。

こうして陳珪・陳登親子は曹操に通じ、呂布の追い落としを画策するようになりました。

呂布はさんざん人を裏切ってきたために、陳珪や陳登に信用されませんでした。

その結果として呂布自身も裏切られたわけですので、これは自業自得だったのだと言えます。

その後、曹操は自ら手紙を書いて呂布に送るなどして、呂布を油断させようとします。

こうした曹操の周到なふるまいによって、呂布の足もとは、じわじわと崩れ始めていったのでした。

陳登に怒るも、なだめられる

呂布は陳登に対し、「曹操に会ったら徐州牧(刺史よりも格上の長官の地位)が与えられるように取り計らえ」と命じていましたが、実際には陳珪と陳登の地位が上がっただけで、呂布の地位は変わりませんでした。

このために呂布は陳登を呼び出し、「おまえの父親はわしに、曹操に協力して袁術と手を切れば望みがかなうと言ったのに、実際には、何ひとつ手に入っていない。それなのにおまえたち親子だけが高い地位に昇りおった。わしはおまえたちに売られたのだな!」と言って、机を叩き斬りました。

しかし陳登は顔色ひとつ変えず、ゆっくりと呂布を諭します。

「私は曹操様にお目にかかり、こう申し上げました。『呂布将軍を扱うのは、ちょうど虎を飼うのと同じで、たくさんの肉をあてがっておかなければなりません。もし腹をすかせば、人間を食らってしまうでしょう。ですので、徐州をお与えください』と。

すると曹操様は『いや、おまえの言ったことは間違っている。呂布は鷹のような男で、腹が空けば役に立つが、満腹になればどこかに飛んでいってしまう。だからあえて徐州は与えずにおくのだ』とおっしゃられました。

陳登がそう述べると、呂布は自分が虎や鷹にたとえられ、決して侮られているわけではないのだと知って、気持ちをやわらげます。

呂布には、このような話で地位を得られないことを納得してしまうような、純朴なところもあったようです。

呂布は自分に自信があり、自尊心が強い性格でした。

このため、ほめそやしさえすればそれで満足してしまうような、単純さがあったのだとも言えます。

陳登は文武に熟達し、その能力を高く評価されていた人物ですので、彼の手にかかれば、呂布をなだめるのは、たやすいことだったようです。

実際には、曹操が徐州牧の地位を呂布に与えなかったのは、正式に統治者の立場につけてしまうと、呂布から徐州を奪う大義名分が失われてしまうからだったのでしょう。

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