候成らが陳宮を捕らえ、降伏する
候成の話に、魏続や宋憲といった部将たちが賛同します。
呂布の部下たちは、呂布が彼らをえこひいきにしたり、逆に冷たく扱ったりしたので、それぞれに仲が悪くなり、派閥を作って反目しあっていました。
このため、候成たちは徒党を組みやすくなっていたのだと言えます。
候成たちは陳宮を捕縛すると、その軍勢を率い、曹操に降伏を申し入れました。
こうして呂布軍は内部から崩壊し、呂布はますます、誰も信用できなくなります。
曹操に降伏し、処刑される
呂布は直属の部下だけを連れて城門の上に登りましたが、曹操軍の包囲は厳重で、水が引く気配もありません。
このため、呂布はこれ以上の抗戦は不可能だと判断し、曹操に降伏を申し入れました。
曹操軍の兵士は呂布を強く縛りあげた上で、曹操の元に連行します。
呂布は「縄目がきつすぎる。少しゆるめてくれないか?」と求めました。
すると曹操は「虎を縛っているのだから、きつくしないわけにはいくまい」とこたえます。
これに対して呂布は、「殿が患いに思っていたのは、私ひとりでしょう。
それがこうして降伏し、捕縛されているのですから、もはや天下のことは心配するまでもありますまい。
殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いて戦えば、天下を平定するのは、わけもないことです」と曹操に、自分を用いるようにと持ちかけました。
曹操もまた、直接対戦をした経験から、呂布の騎兵隊長としての図抜けた実力をよく知っていましたので、処遇に迷いを見せます。
すると、同席していた劉備が進み出て、「殿は、呂布が丁原と董卓に仕えておきながら、裏切った事実をお忘れですか?」と言いました。
これに曹操はうなずいて見せましたが、呂布は劉備に向かい「この男こそが、本当に信用できないやつなのだぞ!」と罵りました。
しかし劉備の言葉によって曹操の心はすでに定まっており、董卓らの轍を踏まないようにするため、呂布をしばり首にして処刑しています。
こうして呂布はついにその、裏切りに満ちた生涯を閉じることになりました。
陳宮が処刑される
先に候成らに捕縛されていた陳宮は、曹操と顔を合わせて話をしました。
陳宮はかつては曹操の元で、腹心として働いていたことがあり、往事のことを語り合います。
やがて曹操は、「君は常々、ありあまるほどの知謀の持ち主だと自認していたのに、どうして捕縛されるようなことになったのかね?」とたずねました。
すると陳宮は「呂布がわしの言うことをきかなかったから、こんなことになった。もしもわしの策に耳を貸していたら、捕虜になどならなかっただろう」と言って嘆きます。
そして「わしは臣下としては不忠者であり、子供としては親不孝者だった。だから殺されるのは自業自得だ」と述べ、自ら望んで処刑されました。
陳宮も曹操を裏切りましたが、その最期は呂布とは違い、潔いものでした。
曹操は陳宮から、残される家族のことを頼まれており、老母と娘を手厚く待遇しています。
自分を裏切った相手の遺族の面倒を懇切に見るあたり、曹操は器の大きな人間だったと言えるでしょう。
高順も処刑される
呂布の配下には高順という優れた武将がおり、清廉潔白で、呂布に対しても忠実に尽くす、立派な人物でした。
高順は呂布のためを思い、「家や国家が滅ぶ場合、忠義な家臣や、優れた智者がそこにいなかったわけではありません。
ただ、それらの者を起用しなかったために、滅ぶのです。
将軍は行動を決定されるときに、熟慮なさらず、すぐによろこんで、間違ったことを口にされてしまいます。
その誤りを直さなければ、いずれは滅びを迎えることになってしまうかもしれません」と、苦言をていしたことがあります。
呂布は高順の忠義は認めていたものの、その意見を用いることはありませんでした。
のみならず、高順が手塩にかけて育てた精鋭部隊を取り上げ、魏続に与えてしまっています。
高順はそれでも文句ひとつ言わず呂布に仕え続けましたが、精鋭を与えた魏続が最後に呂布を裏切ったことを思うと、呂布には人を見る目がなく、誰を本当に用いるべきかを判断する能力がなかったことがうかがえます。
呂布が高順より魏続を重く用いたのは、魏続が縁続きの者だから、というだけの理由によるものでした。
高順は曹操に捕縛された際に、いっさい命ごいをせず、呂布への忠誠を貫いて処刑されています。
高順は「滅びる者は、忠義の家臣を用いない」という言葉を、自ら証明してしまうことになりました。
そして高順の言う「優れた智者」が陳宮であり、この二人を用いなかった呂布が滅んだのは、必然だったと言えるでしょう。
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