鄧艾に迫られる
一方で、別動隊を率いていた魏の征西将軍・鄧艾は剣閣を迂回し、山中の険しい道を突破して、成都に迫ってきます。
このため、諸葛瞻は諸軍を率い、涪に駐屯しました。
この時、従軍していた黄崇(黄権の子)が諸葛瞻に対し、「すみやかに要害を固め、平地に敵が侵入できないようにするべきです」と、諸葛瞻に何度も進言をします。
しかし諸葛瞻がためらい、実施しないでいるうちに、鄧艾の軍勢が迫ってきてしまいました。
こうして諸葛瞻は、みすみす蜀軍を窮地に陥れてしまいます。
鄧艾の誘いを拒絶する
やがて先鋒が敗北したので、諸葛瞻は諸軍を率いて緜竹に後退しました。
すると鄧艾が手紙を送ってきて「もしも降伏したならば、必ず上表して琅邪王に取り立てよう」と言ってきます。
琅邪は徐州にあり、諸葛亮の出身地でした。
諸葛瞻はこれを受け取ると激怒し、使者を斬り捨て、断固として拒絶します。
戦死する
こうして鄧艾と戦いとなりましたが、諸葛瞻は大敗を喫し、そのまま前線で討ち取られました。
享年は37才でした。
この時に黄崇や張遵(張飛の孫)も戦死しており、蜀軍の受けた被害は非常に大きかったようです。
指揮官がいなくなってしまったので、軍勢はちりぢりとなって逃亡し、成都を守るものは、何もなくなります。
この結果、鄧艾はさらに進撃して成都に迫り、劉禅を降伏に追い込み、蜀を滅亡させました。
子の諸葛尚も戦死する
この時、長男の諸葛尚も従軍していましたが、「父も子も、国家の重恩を担っているのに、早く黄皓を斬らなかったために、敗北を招いてしまった。
生きていても、何の役に立とうか」といって、魏軍に突撃しました。
そして父と同じく、戦死しています。
諸葛瞻は、政治においては黄皓を排除できず、軍事においては成都を守れず、蜀の滅亡によって、評判ほどの人物でなかったことを示してしまったのでした。
諸葛瞻評
于宝という史家は、「諸葛瞻には、危難を救うための智力も、敵を防ぐための武勇も不足していた。
しかし外は国家に背かず、内は父の志を裏切らず、忠孝を備えていた」と評しています。
鄧艾との戦いにおいては、要害を固めて守ることもせず、敗北したら軍勢を引かせて成都を守ることもせず、指揮官としての能力がなかったことをさらけ出しています。
この時、鄧艾の軍勢は物資が不足していましたので、緜竹で敗北しても、敗軍を束ねて成都の守備につけば、実は守り切れていたのでした。
総指揮官が前線に踏みとどまって戦死をしてしまったのは、壮烈ではあっても、軽率な行動だったと言えます。
結局のところ、才能があるとみなされていたのは表面的なことに過ぎず、諸葛亮が心配した通り、諸葛瞻は早熟で、その後はあまり成長していなかったようでした。
一方で、鄧艾の誘いを拒絶して、忠節を守ったことは評価されており、その点では、諸葛亮の名を貶めずにすんでいます。
子の諸葛京が取り立てられる
蜀の滅亡後、次男の諸葛京は河東に移住させられました。
その後、才能によって郿の県令に任命されましたが、その治政が評判となり、やがて推薦を受けて東宮舎人(皇太子の側近)になりました。
これには諸葛亮の孫だからということで、もっと重く用いるべきだという世論が、益州で巻き起こっていたことが影響したようです。
やがて諸葛京は、江州刺史(長官)にまで立身しました。