張良の指摘
驚いた劉邦がその理由をたずねると、張良は理路整然と答えます。
「かつて周王朝を開いた武王は、過去の王朝の子孫たちを諸侯に封じましたが、それは武王が彼らを制する実力を持っていたからです。いま陛下に項羽を制する力がありますでしょうか?」とまず問いました。
実力の足りない劉邦が各地に王を封じても、それを制御できないから意味がない、と指摘したのです。
それ以外にも、今の劉邦には、六国を統べるだけの軍事力も財力も、徳も不足していることを説き、そして最も大事なことを述べました。
「かつての六国の遺臣たちが陛下に従っているのは、功績をあげて恩賞を受けるためです。もしも六国に王が復活すれば、臣下たちはみな故国に戻ってそれぞれの王に仕えるようになり、陛下のもとには家臣がいなくなってしまいます。そうなったら、いったい誰と天下を制するのですか?」
これは韓の遺臣である張良にしても同じことでした。
張良もまた、韓が復活したらならば、その王に仕えるために劉邦の元を離れることになります。
つまり、劉邦は自らの陣営を解散する策を実行しようとしていたことになります。
これらを聞いた劉邦は、酈食其の策はなんら実効性がないどころか、害にすらなると気づき、すぐに作りかけていた印綬を破棄させました。
このように、張良は劉邦が過ちを犯そうとすると、正しく理を説いてこれをやめさせる役目も担っていました。
そしてきちんと説明されると、すぐに何が正しいかを理解でき、行動を翻せるのが劉邦の美点でした。
この2人は、真に相性のよい主従だったと言えるでしょう。
こうした働きが数多くあったため、張良は最高の「王佐の才(王を補佐する能力)」の持ち主であったと賞賛されています。
広武山の対陣と、韓信への対応
力戦及ばず、ついに項羽の激しい攻撃の前に、滎陽は陥落寸前となりました。
この時に劉邦は、配下の陳平の奇策を用いて脱出に成功し、北にある広武山に移動して籠城を継続します。
広武山はもともと食料庫になっていた要塞で、ここに篭もることで、食料が充実した状況で戦いつつ、遠征を続ける項羽を飢えさせよう、というのが劉邦が考えた策でした。
これは張良でも陳平でもなく、劉邦自身が考え出した、唯一の優れた作戦でした。
劉邦の読みは当たり、戦いが続くにつれて項羽軍は疲弊してゆき、滎陽の戦いよりも有利に戦況を進めることができました。
劉邦は別働隊を項羽の領土にも派遣し、後方撹乱と食料輸送の妨害も行っており、この影響もじわじわと表れて来ていました。
そうこうしているうちに、北方に派遣した韓信が魏・趙・燕・斉の4ヶ国を制覇し、大陸の北部を劉邦の勢力圏へと塗り替えてしまいました。
劉邦が項羽と対戦を続けるうちに、大陸全体の状況は劉邦の優勢に傾くようになっており、ここにきて張良の立てた長期的な戦略が実っています。
しかし同時に、韓信の勢威と名声が劉邦を脅かしかねないほどに高まっており、その勢いのままに、韓信は自身を斉の仮王に任じるようにと劉邦に要請して来ました。
項羽との苦しい戦いのさなかにそのような要望を受けたので、劉邦は怒って韓信の使者を怒鳴りつけようとしますが、側にいた張良が、劉邦の足を踏んでそれを抑えました。
そして小声で、「韓信の要望を聞かなければ、彼は独立してしまう恐れがあります」と助言したため、劉邦は怒りを飲み込みます。
既に韓信は、劉邦や項羽に並ぶ存在なのではないかと世間から見られるようになっており、劉邦が要望を断れば、そのまま自立して自ら斉王を名乗り、第3勢力として活動し始める可能性が高くなっていました。
劉邦は張良の言葉ですぐにそれを察し、「要望はわかった。ならば、仮の王などと言わず、正式な王になれ」と言い、韓信を斉王に任じました。
この時にもしも張良が劉邦を抑えていなければ、韓信は独立してしまい、大陸の戦乱が長引いたことでしょう。
劉邦の勝利も、おぼつかなかったと思われます。
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