劉邦の度量
知り合ったばかりの張良の才を見抜き、これを重く用いた劉邦もまた、ただ者ではありませんでした。
劉邦その人は戦術や戦略、指揮能力などにおいて、特別に秀でたところはありません。
しかし彼はそれを自覚しており、優れた人物がいれば、その人に大事な仕事を任せて頼った方がよいと思える度量を持っており、このために劉邦のもとには、時間がたつにつれ、じわじわと優れた人材が集まってくることになります。
韓の再興に着手する
劉邦はやがて、景句を討ち破った項梁(こうりょう)という将の傘下に入り、その一翼を担うようになりました。
この項梁は項羽の伯父であり、彼を育て上げた人物でもあります。
陳勝・呉公の反乱が発生すると、会稽(かいけい)という土地を奪取し、そこを根拠地として勢力を拡大していきました。
項梁は秦に滅ぼされた楚という国の将軍の子どもであり、張良と似たような境遇の持ち主です。
張良は項梁に対し、韓の公子であった成を韓の王に据え、秦から韓の地を奪取する作戦を提案しました。
項梁はこれを承認し、成を韓王と認め、張良をその司徒(国を司る大臣)に任命します。
こうして張良は秦と戦いつつ、故国である韓の再興に着手することになりました。
劉邦とともに韓を奪還する
張良は韓成とともに韓の城を攻めて取り戻しますが、やがて秦が大軍を派遣して来たため、再び奪い返されてしまいます。
この時の張良の兵力は千程度でしかなかったため、城を抑えることはあきらめ、ゲリラ戦をしかけて秦軍を疲弊させる作戦に切り替えました。
そうして戦い続けるうちに、劉邦が数万の軍勢を率いて韓のあたりまでやって来ました。
この時に劉邦は秦の都・咸陽を攻め落とす作戦を実行しており、韓はその通り道にあったのです。
張良は劉邦と合流すると、韓の十数城を全て攻め落としました。
兵力さえあれば、張良はその才をふるって秦軍に勝利することも容易だったようです。
こうして張良は、その目的のひとつであった、故国の韓の再興に成功しています。
そして主君の成を城に留めおくと、劉邦とともに秦に向かって進軍しました。
この時には、残るもうひとつの目的である、秦の滅亡が間近に迫っていました。
韓からはるか北の邯鄲(かんたん)の地で、秦は主力決戦に敗れていたからです。
項羽の活躍
張良が韓で戦っている間に、反乱軍の内部では大きな変化が発生していました。
首領の項梁が、秦の討伐軍を率いる章邯(しょうかん)との戦いに敗れて戦死してしまったのです。
その後の主導権争いを項梁の甥・項羽が制し、3万の兵を率いて章邯と対決しました。
これに対し、章邯は20万という大軍を率いていましたが、項羽は敵の食料を奪って飢えさせ、士気を低下させます。
その上で自軍の食料を3日分だけ残して捨てさせ、短期決戦で勝利しなければ、生き残れないと兵士たちに告げました。
これによって兵士たちは奮い立ち、秦軍とは対照的に士気が高まった状態になります。
そして項羽は秦軍に対して決戦を挑み、士気の上がった自軍を、士気の低下した敵にぶつけることで優勢に戦いを進め、章邯を降伏させて大勝利を飾っています。
こうして反乱を討伐するための軍団を失ったことで、秦は滅亡が決定づけられました。
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