張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について

雍歯に報奨を与えるように勧める

こうして論功行賞が進む中、宮中で不穏な動きが発生するようになります。

劉邦が宮殿を見て回っていると、ところどころで臣下たちが密談をしている様子を見かけました。

このため、劉邦は張良に、「どうしてみな密談などしているのだ?」とたずねると、張良は「あれは謀反を起こそうとしているのです」と答えました。

劉邦はこれを聞いて驚き、どうして謀反を企むのだ、とたずねます。

「陛下は身近で功績の大きいものから順番に報奨を与えておられます。しかし彼らは陛下と個人的に親しいわけではなく、恩賞を求める気持ちだけで働いていました。それがなかなか与えられないので、もしや殺されてしまうのではないかと疑心を抱き、謀反の計画をするようになっているのです」と張良は説明しました。

「ならばどうすればいい」と劉邦が問うと、張良は「功績はあるものの、陛下が最も憎んでいる者はおりますでしょうか?」とたずね返します。

すると劉邦は「雍歯(ようし)だ」と苦々しそうに答えました。

雍歯は劉邦が沛で挙兵した頃に、預けていた街を奪った相手でした。

しかも劉邦はこれを奪還しようとして失敗し、散々に煮え湯を飲まされていました。

「あいつのことは殺してやりたいほど憎いが、能力もあるし功績もあるから生かしておいてやっている」と劉邦は吐き捨てます。

すると張良は「ならば雍歯にすぐに恩賞を与えてください。雍歯ですら恩賞をもらえるのだとわかれば、みな落ち着いて自分の順番を待つようになるでしょう」と張良が述べ、劉邦はその通りにしました。

するとすぐに密談をするものはいなくなり、宮中に平穏が訪れています。

仙人になろうとする

張良は天下が定まった後にも、都や劉邦の後継者を定める上で助言を行ったりもしましたが、やがて俗世への関心を失っていき、病にかかったと称して屋敷から出なくなりました。

元々が病弱だったこともあり、秦と項羽を倒した以上、もはや世の中を動かすことに積極的には関わるまい、と決めたようです。

そして穀物を断って呼吸法を研究し、仙人になろうと努めるようになりました。

劉邦の妻・呂氏に請われて時には食事を摂っていたようですが、もはやその智謀を振るうことにも興味がなくなっていたようです。

それでも劉邦よりも9年長生きし、紀元前186年に亡くなっています。

後を子の張不疑が継ぎ、真偽は不明ながらも、三国志の時代に張良の子孫を名のる張翼や張酷といった人物たちが登場しています。

内にも外にも通じた優れた軍師

張良はこれまで見てきた通り、敵を倒すための軍事作戦を考えるだけでなく、陣営内の動きの統御にも通じていました。

常に的確に敵味方の心理を読み解き、どうすれば劉邦が有利になるかを考え、実効性のある助言を与え続けています。

もしも張良が側にいなければ、劉邦が皇帝になることはなかったでしょう。

韓信と蕭何(しょうか)とともに、劉邦の三傑のひとりとして数えられるのは、当然のことであると言えます。

昔から最高の智謀の持ち主であるとして日本でも有名な存在で、先に述べたように能楽の題材となり、肖像画が多く描かれるなどしています。

では、どうしてそのような智謀が張良に備わったのでしょうか。

それはおそらく、自分という小さな視点やこだわりを捨て、物事をありのままに見抜く目を養ったことによるのでしょう。

黄石公の伝承は、張良がその道に至るすべを、象徴的に表した逸話なのだと思われます。

見知らぬみずぼらしい老人に、元は貴族であった張良が膝を屈することによって、自分という檻から抜け出し、自在に世界を見て取る力を身に着けたのでしょう。

これは時代を問わず、人が賢くなるための、数少ない方法のひとつなのだと思われます。

関連書籍

項羽と劉邦の対決を描いた司馬遼太郎の小説です。
弱者であるはずの劉邦が、いかにして項羽を討ち破ることができたのか、その過程がよくわかる構成になっています。
時代の変わり目における、人物群像の物語としても秀逸です

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楚漢戦争 中国史 史記列伝
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