張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について

項羽への追撃

広武山での対峙が続くうちに、劉邦軍も項羽軍もともに疲弊し、ついに和睦交渉が成立することになりました。

大陸をおおまかに東と西に分け、東半分を項羽が、西半分を劉邦が領有する、という内容で交渉が成立します。

そして項羽が撤退を始めると、張良は陳平と一緒になって、劉邦に和睦を破棄して項羽を追撃するように提案しました。

盟約を破ることになるので、劉邦はためらいますが、張良は説得にかかります。

今の項羽軍は後方撹乱の影響を受けて疲弊しているが、彭城に帰還して休息すれば、その軍勢の強さは回復してしまい、いつ倒せるかわからなくなってしまう。

このため、項羽が最も弱っているこの時に追撃をかけ、一気に討ち取ってしまべきだ、というのが張良と陳平の主張でした。

信頼する両者の説得を受け、劉邦は項羽への追撃を決断し、同時に韓信と、後方撹乱で功績を上げていた彭越(ほうえつ)という将軍にも、項羽の打倒戦に参加するようにと促しました。

追撃の失敗と、軍勢の集結

しかし劉邦が追撃を始めてからしばらく時間が経過しても、韓信も彭越も軍を動かさず、劉邦は単独で項羽と戦うことになってしまいます。

この戦いに敗れ、和睦の約束を裏切られた項羽の激しい怒りを買うことになり、再び泥沼の戦いが始まりかねない状況になりました。

この時に劉邦は、「どうして韓信と彭越はやって来ないのだ!」と怒りましたが、張良が彼らの心理を説明します。

「韓信も彭越もやって来ないのは、勝利後の報奨を約束していないからです」と張良が述べると、劉邦は反論しました。

「今はまだ項羽に勝てるかどうかもわからない状況だ。それなのに将来の報奨の約束などできぬ」と不満そうに言いました。

「それは陛下のお立場から見てのことで、韓信たちからすれば、陛下はすでに大陸の半分を我がものとし、たくさんの物を所有しているのです。その獲得に貢献した自分たちの領地を保証しないのは、報奨を惜しんでいるだろう。それでは戦いが終わった後、自分たちの地位が保証されるのか心配だ、と考えているのです」と張良は韓信たちの立場から状況を説明しました。

張良はこのように、様々な立場に置かれた相手の心理を読み取ることに長けており、自分の願望によって策を考えることはなかったため、その助言は常に的確で、実効性のあるもになったのです。

劉邦はこの時も張良の言葉を聞いてすべてを理解し、「ならば両者に戦後の地位を保証しよう」と述べ、韓信には戦後もそのまま斉王でいられることを保証し、彭越には新たに梁王に任じることを約束しました。

すると両者はすぐに軍勢を率いて合流し、劉邦のもとには数十万の軍勢が集結しました。

項羽の最後

こうして張良の助言によって、劉邦は楚を除く大陸のすべての戦力を束ねることに成功し、兵力が10万程度に落ち込んでいた項羽軍を、垓下(がいか)の戦いで討ち破ることができました。

項羽は楚に向かって逃走しますが、途中であきらめ、追撃軍を蹴散らした後、自ら首をはねて自害しました。

これによって劉邦は大陸でただ一人の覇者となり、漢王朝を開くことに成功しています。

論功行賞

天下の統一に成功すると、劉邦は皇帝の地位につき、臣下たちに報奨を与え始めました。

劉邦は張良の功績を第一等のものとして認め、「謀を帷幕の中でめぐらし、千里の外に勝利を決した」と、その戦略の立案能力と智謀を賞賛しました。

そして3万戸という大領をどこでも好きなところに与える、と約束したのですが、張良はこれを辞退しています。

張良は劉邦と留という街で始めて会ったのですが「あの街を領地としていただければそれで十分です」と述べ、このために留候と呼ばれることになりました。

劉邦はこの後、功績のあった臣下たちを粛清し始めるのですが、張良が大きな領地をもらわなかったのは、劉邦がそのようなふるまいに及ぶことすらも、予測していたからなのかもしれません。

王になった韓信も彭越も、劉邦の妻の呂氏によって処刑されており、その他の功臣たちの中にも非命をたどった者がいましたが、張良は多くを望まなかったため、こうした粛清から逃れることができました。

身の処し方の見事さも含めて、まさに賢人であったと言えるでしょう。

【次のページに続く▼】

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楚漢戦争 中国史 史記列伝
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