張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について

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劉邦の正式な臣下となる

これまで張良は、劉邦にとっては客将の立場でしたが、この時に正式に臣下として仕えるようになります。

劉邦は成の一族の信を探し出し、成信候に封じてこれを保護しました。

こうして韓の再建を約束し、張良の全面的な協力を得ることになります。

劉邦の進出

その後、劉邦は新たに大将軍に韓信という人材を得ており、彼の主導の元で関中への進出を図ります。

関中は先に述べた通り、秦が天下を統一する上で根拠地となった重要な土地であり、巴蜀から北に位置する地域でした。

ここを治める王たちは項羽から任命されていたのですが、秦の住民たちから恨まれており、逆に劉邦は好意を持たれていたため、攻略は順調に進み、短期間で制圧することができました。

張良がかつて咸陽での略奪を止めたことが、功を奏したことになります。

関中を制した後、劉邦の勢威は急速に高まっていき、各地の王と連合し、項羽の本拠の彭城にまで攻め込むに至ります。

この時に連合軍は、56万という大軍に膨れ上がっていました。

このため、さしたる苦労もなく項羽不在の彭城を占拠しています。

項羽の反撃と、新しい作戦

この知らせを受けた項羽は、反乱を討伐中であった斉から急ぎ引き返し、わずか3万の軍勢で、56万の連合軍を打ち砕きました。

10万以上の死者を出して劉邦は大敗し、逃走の果てに滎陽(けいよう)という城塞に立てこもります。

連合軍は数こそ多かったものの、劉邦の命令に服しない同格の諸侯たちの軍勢で構成されており、このために精鋭を率いる項羽には勝利することができなかったのです。

このため、張良は新たな戦略を立てて劉邦に提案します。

それは最強の将軍である韓信に別働隊を預け、魏・趙・燕・斉などの、大陸北部の王たちを討伐させて漢の領土に組み込み、連合軍の勢力をひとつに束ねる、というものでした。

圧倒的な強さを誇る項羽を倒すには、巴蜀と関中の戦力だけでは足らず、楚以外のすべての地域の戦力を集める必要がある、と張良は考えたのです。

劉邦はこの戦略案を承認し、韓信を魏に向けて送り出しました。

劉邦自身は項羽の軍勢を滎陽に引きつけ、韓信の作戦を成功させるための囮の役を務めることになります。

籠城と酈食其の策

滎陽に篭った劉邦の軍勢は、連日項羽からの激しい攻撃を受け、これを防ぐうちにじわじわと疲弊していきました。

劉邦本人も精神的に摩耗してゆき、ある日儒者の酈食其(れきいき)の献策に乗ってしまいます。

酈食其の策とは、「項羽が殺害した六国の子孫たちを諸侯に封じれば、みな劉邦様の家臣となり、勢力を増して項羽を倒すことができます」というものでした。

六国というのは、かつて秦と覇権を争っていた大陸各地の国々のことです。

その王家の者たちに再び地位を与え、漢に従わせれば、大陸の各地が劉邦のものとなり、たちまち天下を統一できるでしょう、というのが酈食其の主張でした。

追い詰められていた劉邦は、この策を用いれば項羽にも勝てるのか、と思い込んで承認し、さっそく諸侯たちに与える印綬を作成させ始めます。

その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、劉邦は酈食其の策を聞かせました。

これを聞いた張良は、「この策を実行すれば、陛下の統一事業は頓挫するでしょう」と冷静に告げました。

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