計略を用いて武関を突破する
項羽が秦の主力を引きつけている間に、劉邦と張良は秦に侵入するための障壁である、武関という防衛拠点の攻略に取りかかりました。
ここを守っているのは商という国の出身の人間であったので、張良はこれを買収することにします。
商は「商人」の語源となった地域で、人々は生産活動をせず、主に物産の売り買いによって生計を立てていました。
彼らは農業が中心の当時の中国では差別されていた存在でもあり、このためにだましたとしても、だました側が非難されることはない、という社会的な位置づけがなされていました。
張良は敵将を買収して武関の門を開かせた後、相手が報酬を要求してきた際に、これをだまし討ちにして殺害します。
こうして敵の指揮官を討ち、難なく要害に侵入した劉邦の軍勢は、武関を制圧し、秦の根拠地である関中の地へと進軍しました。
相手が故国を滅ぼした仇であったためか、この時の張良は、ひどく冷酷な策を実行に移しています。
秦を占拠する
秦はもともと大陸の西側で発展した国で、函谷関(かんこくかん)や武関といった堅牢な関所に守られた要害にありました。
このため、その地域は関の中、すなわち「関中」という名で呼ばれるようになっています。
関中は肥沃な土地で、多くの人口を養うことができ、秦はここを根拠地として、他国に兵を送って侵攻を繰り返していました。
劉邦と張良はその関中に侵入し、秦の首都である咸陽へと迫ります。
この時に秦の内部では政変が起きており、皇帝は3代目の子嬰(しえい)になっています。
劉邦たちが進軍すると、やがて子嬰が降伏してきたので、これを捕らえて咸陽に入城しました。
すると、劉邦は咸陽の宮殿の華やかさや、美女や財宝に目がくらみ、これを略奪しようとします。
しかしそれを実行すれば秦の人々から反感を買うことになり、劉邦の将来にとって災いになると見た張良は、説得してやめさせようとします。
劉邦に「ここで略奪を行えば、秦がやって来た暴虐と同じことを繰り返すことになり、沛公は無道な人だとみなされ、世の人々からの支持を失います」と告げました。
さらに張良は「忠言は耳に痛いものですが、行いを正すのに役立ちます。また、良薬は口に苦しと申します」とも述べました。
劉邦はこれを聞いてもっともだと思い、素直に張良の忠告を受け入れ、宮殿の一切に手を出さないようにと部下たちに告げました。
しばらく後になってから、この時の張良の忠告が、劉邦に大きな利益を与えることになります。
項羽が劉邦の殺害を計画する
こうして劉邦は咸陽への一番のりを果たしました。
もともと、項羽と劉邦がそれぞれ反乱軍の拠点から出発する際に、懐王という君主が、「一番最初に関中を攻め落とした者をその地の主とする」という約束をしていました。
このため、劉邦はすでに自分が関中の主になったと考え、これを失ないたくないと考えるようになります。
そして部下にそそのかされて、他の者が関中に入ってこれないよう、函谷関に兵を置き、これを守らせることにしました。
しかし邯鄲で章邯を撃破した項羽が函谷関にやって来ると、劉邦がこれを塞いで自分の進軍を妨げていると知り、激怒します。
すぐに函谷関を攻め落とすと、項羽は関中に進軍しますが「既に劉邦が王のようにふるまっている」と劉邦の部下・曹無傷から告げ口を受けたことで、劉邦を殺してしまおうと考えるようになりました。
項羽からすれば、秦を討ち破る上で最大の功績を上げたのは自分であり、自分の働きのおかげで秦に先に入れただけの劉邦が、大きな顔をするのは許せない、ということであったようです。
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