後始末
こうして葛西大崎一揆は収束したのですが、騒動が起きた30万石の土地は、政宗に希望通りに与えられています。
政宗の謀略が成功したのかと思いきや、秀吉はそんなに甘い人物ではありませんでした。
代わりに伊達家が先祖代々、200年にも渡って治めてきた44万石の領地を没収し、氏郷に与えています。
30万石を得て44万石を失いましたので、政宗は結局、14万石を削減される結果となりました。
元が72万石でしたので、この措置によって58万石となっています。
その上、新しい30万石の領地は、一揆が起きたばかりで荒廃しており、元の44万石とは比べものにならないほどに収入の少ない土地でした。
こうして政宗には、陰謀を企んだ罰が与えられます。
そして、政宗の領地を氏郷が手に入れたことで、政宗は氏郷をますます憎むことになりました。
領地の大きさも、氏郷が42万石から86万石となり、さらに検地の結果、91万石にまで増加しました。
これに対し政宗は58万石となったわけで、逆転されてしまっています。
政宗は陰謀を企んだ結果、高いつけを払うことになったのでした。
政宗による暗殺計画
自業自得でしたが、政宗はこの状況にひどく腹を立て、ついに氏郷の暗殺を本気で考えるようになりました。
そして清十郎という16才の若い侍を用い、暗殺を実行に移そうとします。
政宗は清十郎に言い含め、氏郷と親しい田中直政という武将の小姓となり、氏郷が訪ねてきたら、機会を見て刺し殺せ、と命じます。
この企みは、関所で暗殺計画を記した密書が発見されたことで未然に防がれ、清十郎は牢に入れられました。
そして秀吉に事態が知らされるのですが、秀吉は奥州情勢の安定を重視し、政宗と氏郷に、和解するようにと強く命じます。
これを受け、氏郷は清十郎を呼び出し「私は誤って罪のない義士を牢獄に入れてしまったようだ。主君のために命を捨て、忠義を尽くすこと、称賛するにあまりある行いだ。早く伊達家に帰るがよい」と言って、礼儀正しくもてなしてから帰らせました。
このようにして、91万石の領主となったものの、氏郷は政宗に煩わされる日々を過ごすことになっています。
領地をめぐる争いを、和歌を引用して鎮める
葛西大崎一揆の結果、氏郷の領地になった安達郡という土地がありました。
その川向かいに黒塚という土地があったのですが、ここの帰属をめぐり、政宗との間に争論が発生します。
氏郷はこの時、平兼盛という平安時代の公家が「陸奥の 安達ヶ原の 黒塚に 鬼籠もれりと 言うは真か」という和歌を詠んでいることを指摘し、人々に「これでいかがだろう」と問います。
すると皆が「黒塚は古来より、安達ヶ原に属していることが明らかですな」と言い、これを受けて政宗は黒塚をあきらめています。
氏郷は教養人でしたので、このような時にすらすらと古い歌を持ち出し、政宗をやりこめることができたのでした。
また、氏郷は侘び茶の大成者である千利休の高弟だったことでも知られており、多才な人物でした。
九州の名護屋に帯陣する
こうして氏郷は奥州情勢の安定に力を尽くしましたが、一方でこの頃、秀吉は大軍を興して朝鮮半島への討ち入りを開始しています。
政宗に対する裁定が甘かったのは、朝鮮と明との戦いに集中したかったので、東北で騒ぎを起こして欲しくなかったからなのでしょう。
もしも秀吉が国内の安定に力を注いでいたら、政宗が好き勝手をすることはできなかったと思われます。
ところで、この朝鮮半島への遠征は、開戦当初は好調だったのですが、明が本格的に参戦してくると苦戦するようになり、戦況が膠着しました。
このため、奥州の抑えである氏郷までが九州の遠征拠点・名護屋城まで出向くことになります。
秀吉は戦いが長引いていることを憂い、諸将を集めて軍議を開きました。
この席で氏郷は「朝鮮をそれがしにくださるのであれば、すぐに切り取ってご覧に入れましょう。そうすれば殿下の御苦労もなくなることでしょう。是非そのように命じてください」と申し出ます。
しかし秀吉は氏郷の発言を喜ばず、かえって疎んじました。
苦戦が続く中、氏郷が活躍して勝利してしまえば、これまでに指揮をしていた秀吉の面目が潰れてしまいますし、氏郷に朝鮮を渡せば、その勢力が強まり過ぎるのではないかと警戒したのだと思われます。
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