12万石の大名となる
やがて小牧・長久手の戦いが終わると、氏郷は秀吉から松ヶ島周辺を平定した戦功を称賛され、12万石の領地を与えられました。
これは3千程度の兵を率いる身分になったことを意味しています。
そのうえ、伊勢の諸将の指揮権も与えられましたので、氏郷の勢力は大きく増大しました。
そして秀吉から羽柴の姓を与えられ、重臣としての地位を獲得しています。
しかし、氏郷はかつて秀吉を「猿」呼ばわりして、「気でも違ったか」と罵ったという話もあり、秀吉に心服まではしていなかったようです。
秀吉に臣従した者たちの多くは、氏郷をはじめ、秀吉とは「信長の直臣」という意味で、同格だった者たちばかりでした。
このため、秀吉の実力を鑑みて臣従してはいたものの、畏怖したり、敬意を抱くところまではいっていなかったのです。
しかし1585年になると、秀吉はついに関白という至尊の地位に就任し、諸大名たちは秀吉への臣従の姿勢を、深めていかざるを得なくなりました。
氏郷を名のる
そんな流れの中で、賦秀という名のりを氏郷に変えています。
これは「秀」の字が秀吉と同じで、それを「賦」の下に置くことは不遜かも知れない、と遠慮をさせられた結果でした。
氏郷の名前の変化からも、秀吉の立場の向上を知ることができます。
「氏」の字はかねてより蒲生一族が用いてきたもので、「郷」の字は、先祖だとされる藤原秀郷にあやかったものでした。
こうして秀吉に配慮を見せた影響もあってか、やがて氏郷は従四位下・侍従という官位を与えられています。
九州征伐で活躍する
1587年になると、秀吉は九州全土を支配しつつあった島津氏を討伐します。
この時に秀吉は20万の大軍を、九州の東部を攻める部隊と、西部を攻める部隊の二つに分け、自らは西部の攻略を担当しました。
そしてこの部隊の先鋒を堀秀政という武将が任され、氏郷はその下について戦うことになります。
かねてより、あらゆる戦いで先鋒を務めたいと思っていた氏郷は、秀政の下につけられたことを不満に感じましたが、岩石城の攻略を成功させ、勇名を馳せています。
岩石城は古来から修験道の修行場になるほどの険しい山に築かれた城で、「豊前一の堅城」とも評されたほど、攻め落としにくい城でした。
このため、秀吉は岩石城に抑えの兵を残し、素通りして島津氏の本拠である薩摩に攻め込もうとします。
しかし氏郷は再三に渡って「岩石城を攻略し、征伐軍の武威を見せつけるべきです」と主張しました。
このために秀吉が折れ、氏郷に攻撃を許可しています。
氏郷は前田利長(利家の嫡男)と一緒に岩石城の攻略に取りかかりますが、守将の熊谷越中守が徹底抗戦をしたため、激戦となりました。
その様子を見た秀吉は本陣から使者を送り、薄萌黄に柳を縫い付け、裏地に紅梅を描いた立派な羽織を届けさせました。
そして「これを着て城を攻め落とすがよい」と氏郷に伝えます。
氏郷は秀吉の配慮に励まされ、さらに奮戦して岩石城を攻め落としました。
すると秀吉は、鹿毛のたくましい馬を氏郷に贈り、「早く我が元に参るがよい」と伝えます。
氏郷がこの名馬にまたがって秀吉の元に向かうと、秀吉は氏郷の立派な武者姿を見て上機嫌となり、戦功を褒め称えました。
その後、秀吉の軍勢は一方的に島津軍を追い詰めていきますが、これは岩石城を氏郷たちが攻め落とした影響が大きかったのだと、諸将たちから称賛されます。
こうして氏郷の武名は、ますます高まっていきました。
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