蒲生氏郷 秀吉が怖れた名将の生涯と逸話

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氏郷は企みを見抜く

長政は曾原えはらという地点に伏兵を置いてから、いつも通りに麦の刈り取りを行い、氏郷をおびき寄せようとしました。

そして氏郷が先頭を駆けてきたら、伏兵に取り囲ませ、討ち取ってしまおうとしたのです。

氏郷の家臣が火縄銃を撃ち鳴らして長政の襲撃を知らせると、氏郷は2千の兵を率いて出陣しました。

しかしいつもとは違い、氏郷は自ら先陣を切ることはありませんでした。

2千のうちの1千を敵から三十町(約3300メートル)ほど離れた地点に残しておき、残る1千を率いて前進します。

そしてさらに部隊を二つに分け、500を自身が率い、残る500の部隊に、苅田をしている敵に攻めかかるように命じます。

すると敵将・長政は氏郷が策に引っかかったと勘違いし、伏兵を繰り出して氏郷の先鋒隊を包囲させました。

これを見た氏郷は、直属の500と、後方に控えさせた1千の部隊に攻撃命令を出し、逆に敵を包囲して、散々に討ち破ります。

氏郷は敵の策を見抜いており、これを逆に利用して、一気に長政の軍勢を倒そうとしたのでした。

氏郷が、ただ闇雲に先頭を駆けていたわけではないことがわかります。

そして氏郷は、崩壊した敵軍に激しく追撃をかけ、中級・下級の指揮官73名と、そして数え切れないほどの雑兵を討ち取りました。

この結果、長政は継戦が困難になるほどの打撃を受けています。

家臣たちは「この機に乗じ、一気に長政を攻め滅ぼしてしまいましょう」と進言しますが、氏郷はそれ以上の攻撃を控えました。

「そなたらが申す通り、いまならば日置城を攻め落とすのは、さほど難しくあるまい。されど、追い詰められた敵は激しく抵抗し、これを討ち平らげるには手間取ってしまうだろう。今夜の戦いで長政はほとんどの指揮官を失い、戦闘力は失われている。後は攻撃せずとも降参してくるはずだ」と述べ、攻撃しない理由を説明しました。

すると氏郷が予想した通り、翌日になると長政は降伏を申し入れてきます。

氏郷はこれに対し、長政を助命したのみならず、懇切にもてなしてから日置城に送り返しました。

圧倒的な戦勝と、その後の寛大な処置を知った周辺の領主たちは、次々と氏郷に降参を申し入れ、あるいは家臣になりたいと願い出てきました。

こうして松ヶ島城の周辺は、一度の戦勝によって平定されています。

氏郷は戦いに強いだけでなく、戦わずとも人を従える手段を心得ていたことがわかります。

このあたりは、まさに名将と呼ぶにふさわしいふるまいです。

常に先陣を駆けた理由

氏郷は常に家臣たちの先頭に立って戦っており、ついにはそれを利用して罠にかけようとする者が現れました。

氏郷が先頭に立つのは、自分の武勇を誇りたいわけではなく、きちんとした理由があり、それを家臣たちに説明しています。

「兵士たちを戦場で働かせようにも、ただ『攻めかかれ!』と命令するだけでは、動かないものだ。攻撃をしかけたいと思うところには、武将自らがその場に行って、『ここに来い!』と呼びかけなければならない。そこまでする武将を、見捨てるような臆病な兵士はいない。逆に、自分だけが後方の安全なところにいて、兵士たちだけに犠牲を払わせようとしても、兵士たちはそんな臆病な武将の言うことなど、聞きはしない」と述べ、武将が先頭に立ち、兵士たちを引っ張ることの重要性を説いています。

鯰尾の兜

また、氏郷は「銀の鯰尾なまずおの兜」という非常に目立つ兜を使用していて、これがシンボルになっていました。

鯰尾の兜

【銀の鯰尾の兜】

氏郷は新参の家臣に対しては、「我が旗本に銀の鯰尾の兜をかぶり、常に先頭を進む者がいる。この者に劣らぬ働きを見せよ」と伝えていました。

そして、いざ新参者が戦場に出ると、鯰尾の兜をかぶった武者はどこにいるのだろう、と探すことになります。

そして実際に見つけてみると、氏郷その人ではないか、と気がつくのでした。

氏郷は目立つ兜をかぶり、わざと注目を集めて先駆けをすることで、家臣たちに勇気をふるわせ、蒲生軍の強さを引き出していたのです。

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