蒲生氏郷 秀吉が怖れた名将の生涯と逸話

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氏郷に政宗の企みが知らされる

氏郷は当初、政宗と協力して一揆の鎮圧を行うことで合意していました。

そして1590年の11月16日に出陣する予定だったのですが、直前に政宗の家臣・須田伯耆ほうきが一揆を扇動したのは政宗である、と氏郷に通報してきました。

さらに政宗の秘書官である曾根そね四郎助しろすけが、政宗が一揆勢にあてた密書を氏郷に送ってきたので、政宗が一揆に関与していることがはっきりします。

このため、氏郷は政宗と連携するのはやめ、単独で一揆勢に対応することにしました。

この時に長沼城主の新国にいくに上総かずさという武将が氏郷の元を訪れ、「今回の蜂起は政宗の仕業であり、現地はかなり危険な状況になっているはずです。しかも道中は雪が降っていて、通行も難しい状態です。土地勘のない場所でもありますし、無理に進軍せず、会津にお戻りください」と進言しました。

これに対し、氏郷は「先に関白殿下(秀吉)より、木村吉清を弟と思って助け、この地を治めよと命を受けている。なので、たとえ途中で死ぬことになろうとも、吉清を見捨てることはできない。信義を失ったら、もはや天下に顔向けができまい」と言い、制止を振り切って出陣します。

木村は佐沼さぬま城に籠城して一揆勢と戦っていましたが、いつまでも持ちこたえられるかわからない状態でしたので、氏郷は危険を犯して一揆勢を攻撃することにしたのです。

しかし東北の11月下旬のことですので、既に寒さが厳しくなっており、家臣たちの士気は低下しました。

氏郷はこれを受け、素肌に甲冑をまとうパフォーマンスを見せることで、家臣たちの士気を高めようとします。

これに家臣たちは奮い立ったようで、蒲生軍は一揆勢に占拠されていた名生みょうじょう城を奪い返すことに成功します。

そして氏郷は城の守りを固めつつ、一揆勢と政宗の双方を警戒しました。

氏郷が秀吉に、政宗の陰謀を報告すると、秀吉は側近の石田三成を奥州に派遣し、事態の収拾を命じています。

葛西大崎一揆

政宗が一揆勢への攻撃を行う

氏郷が城に籠もって様子をうかがっていると、政宗もまた単独で行動を開始しました。

こちらも一揆勢に占拠された宮沢城を攻略し、佐沼城で孤立していた木村吉清を救出します。

そして氏郷の元に木村を送って来ますが、氏郷は政宗を信用せず、さらに人質を送るようにと要求しました。

これに対し、政宗が重臣の伊達成実しげざねらを送ってきたことで、ようやく氏郷は会津に帰還しています。

この時に政宗は、裏切っていないことを強調する手紙を送ってきましたが、氏郷は「私は何も気にしていない。ただ、天下のためを思って行動されよ」と返事をしただけでした。

氏郷は政宗の魂胆を見抜いていましたが、ひとまず伊達軍と事を構えるつもりはなかったので、牽制するにとどめたようです。

政宗は秀吉に査問を受けるも、ひとまず切り抜ける

翌1591年の正月に、氏郷は木村を伴って上京し、事情を秀吉に伝えます。

すると政宗に上洛の命令が下り、2月4日には秀吉の査問が行われました。

この席で政宗は「自分の花押かおう(印判)には針で穴を開けている。この一揆勢にあてた密書にはそれがないから、偽造されたものだ」と主張します。

秀吉は政宗の主張を認めたふりをし、そのまま一揆勢の鎮圧にあたるようにと命じました。

政宗が一揆勢を皆殺しにする

政宗は5月に米沢に戻り、6月ごろから本格的に一揆勢の攻略に取りかかりました。

そして激戦の末、一揆勢の拠点となっていた寺池てらいけ城を攻め落とし、一揆を収束させます。

8月14日には一揆勢の主だった武将を呼び寄せると、家臣に命じて皆殺しにさせました。

これは、彼らの口から陰謀が漏れるのを怖れたためだと言われています。

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