蒲生氏郷 秀吉が怖れた名将の生涯と逸話

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発病し、名医たちの診断を受けるも回復できず

こうして氏郷は存在感を示しますが、九州に帯陣している間に発病し、やがてその病状が悪化していきました。

会津に戻って休養するものの回復せず、1594年に上洛し、名医たちの治療を受けることになります。

秀吉は曲直瀬まなせ玄朔げんさくを始め、9名もの著名な医師を起用し、氏郷を回復させようとします。

しかし氏郷は不治の病にかかっており、1593年から95年まで、3年に渡って闘病したものの、ついに回復することができませんでした。

キリスト教徒として死す

氏郷は伏見の屋敷で伏せっていましたが、その寝室には、キリスト教徒として知られる高山右近という武将が付き添っていました。

氏郷は洗礼を受けてキリスト教徒になっており、熱心に信仰しています。

このため、その枕元に聖像を掲げ、右近から死後に赴く天国の話を聞き、聖像に目を向けながら息を引き取った、と言われています。

これは1595年2月7日のことで、氏郷はまだ39才でした。

氏郷は「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」という辞世の句を残しています。

「風が吹かなくとも、花の寿命には限りがあり、遠からず散ってしまうものだ。それなのに、春の山風はどうして気ぜわしく、花を散らしてしまうのだろう」と言う意味で、自らの短命な生涯を嘆いた歌となっています。

毒殺説

若くして有能な武将が死去したことから、氏郷は毒殺されたのではないか、とも言われています。

これには伊達政宗に毒を盛られた、という説と、氏郷の器量を警戒した秀吉が、石田三成に命じて毒殺させた、という二つの説があります。

しかし、氏郷は3年にも渡って闘病しており、その間の診療記録によると、内臓の病が死の原因だったことに間違いはないようです。

その後の蒲生氏

氏郷が亡くなった時、後継ぎの秀行ひでゆきはまだ13才でしかなく、会津91万石の領主を務めるには力不足だろうと秀吉に判断されます。

それでも家康の娘と結婚し、後見を受けることを条件に、会津の継承が認められました。

しかし家中で内紛が起きたことから、1598年になると、18万石に減封された上、宇都宮に移動させられることになりました。

これは秀行が家康の娘婿だったため、石田三成が家康の勢力を削減するために、秀吉に減封を進言した、という説もあります。

この結果、会津には蒲生氏に代わって上杉景勝かげかつが入ることになりました。

こうして大幅に領地が削減されましたが、秀行は関ヶ原の戦いで家康に味方すると、宇都宮に待機して、景勝の牽制役を担うことになりました。

そして戦いが家康の勝利に終わると、上杉領から60万石を与えられ、会津に復帰しています。

秀行は家康から厚遇を受け、徳川の一門衆として扱われ、松平姓も授与されました。

こうして蒲生氏は引き続き繁栄するかと思われたのですが、氏郷に似て子孫たちは病弱で、30才前後で次々と亡くなってしまいます。

4代目の忠知ただとももまた31才で死去し、後継者がいなかったため、蒲生氏は断絶してしまいました。

氏郷は当時としては珍しく、信長の娘である正室の他には妻を持つことがなく、このために一族の人数が少なくなっていました。

その影響もあって、氏郷の血筋は途絶えることになったのです。

氏郷の生涯

こうして見てきた通り、氏郷は文武両道の武将で、優れた器量を備えた人物でした。

家臣たちに厳しく接しつつも、大事に扱って優秀な人材を集めており、蒲生氏の勢力を急速に高めることに成功しています。

家督を継いでから13年ほどで、4万石から91万石にまで蒲生氏を発展させていますので、もしも氏郷が60才まで生きていたら、120万石を領有した前田家以上の大名になっていたかもしれません。

しかし氏郷は病に蝕まれたことで、若くして世を去ることになりました。

活躍したのが、信長の死後、秀吉が天下を統一するまでの時期に限られており、大規模な決戦で主力を担い、その才能を十全に発揮する機会を得られなかったのが、残念なところではあります。

しかし、戦国末期の武将たちの中では、随一と言える才能を持っていたことに、間違いはないでしょう。