松坂城を築き、城下の開発を行う
九州征伐が島津氏の降伏によって完了すると、氏郷は伊勢の領地に戻り、本拠地を移転しました。
松ヶ島城は伊勢湾に面する海沿いの城で、城下町の開発がしづらい地形に築かれていました。
このため、少し南の平地にある四五百森に松坂城を築城し、こちらを本拠に定めます。
松坂城は特に石垣が優れており、なだらかな曲線を描き、美観と防御力を兼ね備えた構造を持っていました。
氏郷は文化人でもありましたので、見栄えにもこだわったのでしょう。
そして城下町には、松ヶ島に在住していた商人たちを移住させます。
また、旧領の近江からも商人たちを呼び寄せ、「楽市楽座」という自由市場を設けることで、松坂の商業の発展を促しています。
これらの氏郷の施策によって城下町が発展し、現在の松阪市の基盤を形成することになりました。
商業を重視したのは、近江出身者らしい傾向だったと言えるでしょう。
楽市楽座は信長が採用したことで有名ですが、その発祥は近江だったと言われており、進取の気鋭のある土地柄だったようです。
小田原征伐で奇襲を受ける
1590年になると、秀吉は天下統一の仕上げをするために、関東の北条征伐を行いました。
氏郷もこの戦いに従軍し、北条氏の本拠・小田原城の包囲戦に加わります。
氏郷が小田原城に着いた頃には、既に北条氏は追い詰められていましたが、逆転を狙ってか、氏郷の陣が夜襲をしかけられました。
氏郷はこれを予想しておらず、慌てて迎撃を行いました。
その証拠に、氏郷は自分の甲冑を身につける余裕がなく、近くにいた家臣のものを借りて出陣したほどでした。
しかしいざ戦いが始まると、氏郷はいつも通り、すぐれた働きを見せています。
家臣たちが敵に対応するのをよそに、氏郷はただ一人、夜の闇を活用し、槍をひっさげて敵の背後に回り込みました。
そして氏郷は敵の背後から突きかかり、次々と倒していきます。
奇襲軍に対して奇襲をしかける、という逆転の発想により、氏郷は状況を覆しました。
こうして後方から北条勢が崩れ始めると、やがて氏郷の家臣たちも立ち直り、敵を押し返し始めます。
すると北条勢は失敗を悟り、撤退しようとしました。
しかし退路には氏郷が立ちふさがっており、槍で激しく攻撃してくるので、簡単には撤退できません。
氏郷に追い立てられた北条勢は城内に逃げ込めず、とうとう堀の中へと飛び込むはめになりました。
すると氏郷の配下の者たちがやってきて、敵兵を追って堀に飛び込み、次々と討ち取っていきます。
この結果、奇襲をしかけてきた北条勢は壊滅しました。
この話を聞いた秀吉は「氏郷が戦功を立てるのは、もはや珍しくもない。だが夜襲を受けたにも関わらず、敵の背後に回り込んだとっさの機転は、古今に例がないほど優れたものだ」と絶賛しています。
会津42万石の大名となる
秀吉はやがて北条氏を降伏させ、伊達政宗など東北の諸侯も臣従させたことで、ついに天下統一を成し遂げました。
そして会津(福島県)に優れた武将を置き、関東と東北の監視役を任せることにします。
この時、秀吉は諸将に、誰が会津の守護にふさわしいか投票をせよ、と呼びかけました。
もっとも票を集めたのは細川忠興でしたが、秀吉は「そなたらは実に愚かである。この地には、氏郷の他に置くべき者はあるまい」と述べ、氏郷に会津42万石の領地を与えています。
(細川忠興は秀吉に指名されたものの、これを断ったので、かわりに氏郷が選ばれた、という説もあります)
さらにこの領地は、後に検地や加増をへて91万石に改められており、氏郷は一躍、2万数千の軍勢を率いる大大名になりました。
ひとまずは12万石から42万石に領地が大幅に増えたわけですので、それでも大きな出世だったと言えるのですが、この処遇を伝えられた氏郷は、自邸の広間の柱に寄りかかり、目に涙を浮かべたと言われています。
山崎右近という武将が、氏郷が多くの所領を与えられ、喜びのあまりに涙を流したのかと思い「そのように感激されるのも、ごもっともなことです」と声をかけました。
しかし氏郷は「そうではないのだ。領地が少なくとも、都の近くにいれば、いずれは天下を得る機会があるかもしれない。しかし、いくら領地が増えようとも、都からいくつもの山を隔てた地に遠ざけられてしまえば、もはや望みをかなえることはできない。我らは捨てられたのだと思って、つい涙をこぼしてしまったのだ」と述べました。
このことから、氏郷は機会に恵まれれば、天下をも得ようとするほどの大望を抱いていたことがわかります。
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