初陣で活躍し、結婚する
1569年になると、信長は南伊勢を支配する北畠氏の本拠・大河内城の攻略に取りかかりました。
この戦いにおいて、氏郷は14才で初陣を飾っています。
そして戦場で敵軍の姿を見るや、お付きの老臣たちを置き去りにして、ただ一騎で抜け駆けし、敵中に突撃しました。
ふつう、初陣であれば戦いを怖れて固くなってしまうものですが、氏郷には全く臆する様子がありませんでした。
そして敵軍の武将を討ち取って無事に帰還し、信長にその勇気を称賛されます。
信長は打鮑という、祝宴に用いる肴を氏郷に与え、活躍を喜びました。
この結果、氏郷は初陣にして、信長が見込んだだけのことはある、と周囲に認められるようになります。
戦いが終わるとかねてよりの約束通り、12才になっていた信長の次女と結婚し、蒲生氏の本拠である日野城に帰還しました。
柴田勝家の与力となる
翌1570年になると、氏郷は信長に頼み、柴田勝家の元で戦わせてもらうことにします。
勝家は織田軍で随一の猛将として知られる人物で、戦いでは常に先鋒を務め、数多くの功績を立てていました。
このため、同じく先鋒を任される武将になりたいと思っていた氏郷は、勝家の指揮や立ち居ふるまいを学ぶために、その側にいたいと願ったのです。
信長は「もっともなことだ」と述べてこれを許し、氏郷は父・賢秀とともに、勝家の与力となって活動しています。
そして浅井・朝倉氏との戦いや、長篠の戦いなどに従軍し、勝家の側で、武将としての経験を積んでいきました。
名馬を譲りうける
氏郷は16才になると、織田金左衛門という武将から、名馬を譲り受けることになりました。
元より金左衛門の所有する名馬の存在はよく知られており、これを求める武者は数多くいました。
しかし金左衛門が「この馬を欲しいとおっしゃるか。ならば、戦いの際に一番に敵陣に乗り込み、名を上げるつもりがあるのなら、お譲りしよう」と言ったため、そのうち誰もこの馬を求めなくなりました。
敵陣に一番に乗り込むのは、勇気があると証明することになりますが、戦死する可能性も高い、危険な行為だったからです。
氏郷はそんな金左衛門の元を訪れ「戦いの際に先頭を駆け、必ず功績を立てます」と固く約束することで、名馬を譲ってもらうことができました。
そして10日ほどが過ぎると、武田信玄の軍勢が東美濃(岐阜県東部)に侵入してきます。
氏郷はこの戦いに参加し、名馬にまたがり、約束通りに先頭を駆けていきます。
すると武田軍の斥候に行き会い、馬上で戦いになりました。
氏郷は槍を振るって武田兵に勝利し、その首を持ち帰ります。
そして血まみれの姿で信長に報告し、金左衛門にも首を見せ、約束を違えなかったことを伝えました。
この話が広まると、信長を初め、織田家中の者たちは皆、氏郷の勇敢さに感嘆した、ということです。
本能寺の変で信長の遺族を保護する
こうして氏郷が若き日々を戦場で過ごすうちに、信長は各地の強豪を打倒し、天下人への道を邁進していきました。
しかし1582年になると、信長は重臣・明智光秀の謀反にあい、本能寺で討たれてしまいます。
これは氏郷が26才の時のことでした。
この変事が発生した時、父・賢秀は信長の本拠である安土城の留守を任されていました。
一方、氏郷は安土城に近い日野城に滞在しており、事態を知ると、信長の遺族を保護するため、直ちに500の兵を率いて出発します。
氏郷は兵を率いるだけでなく、女性や子どもを乗せるための輿50挺を運び、鞍を置いた馬も100匹ほど連れて行きました。そして荷物を輸送するための馬も200匹用意しています。
そして安土の父と連絡を取り、信長の妻と子どもたちと、お付きの者も保護して引き取り、日野城に匿いました。
あらかじめ輿や馬を用意した、氏郷の配慮が行き届いていたため、撤退は迅速に行われ、仇である光秀に、信長の遺族が捕らえられる悲劇が防がれています。
もしも光秀に捕まっていたら、男子は殺害されていた可能性もあったでしょう。
氏郷たちが日野城に戻ると、やがて光秀から「こちらの味方をするならば、近江半国を差し上げよう」という申し出がありました。
賢秀と氏郷はこれを拒否しますが、使者は毎日のように続けてやって来てます。
そのしつこさに怒った氏郷は、使者を罵って追い払い、以後は会おうともしませんでした。
信長は氏郷の舅ですので、それを殺害した光秀に、氏郷が味方するはずがありません。しかし、光秀はほとんど味方を増やせていなかったので、そんな道理も忘れて焦っていたのでしょう。
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