偽物の智者を遠ざける
一方で氏郷の人を見る目の確かさを示す、次のような逸話があります。
当時、玉川左右馬という男がいて、弁才と学識に優れていたことから、世の人々から高く評価を受けるようになっていました。
すると、ある家臣が氏郷に「玉川を謀臣として起用してはどうでしょう」と推薦します。
氏郷は「ならば一度会ってみよう」と答え、玉川を招いて懇切にもてなしました。
しかし10日ほど玉川と話をした後で、結局は召し抱えることなく引き取らせています。
推薦した者は落胆し、老臣たちも「殿はどうして玉川を登用しなかったのだろう」と、いぶかしみました。
その後、夜話をしている時に、老臣が「玉川は才知のある者と見ましたが、どうして登用されなかったのでしょう」と氏郷にたずねました。
氏郷はこれに対し「そなたらが不審に思うのも、もっともなことだ。世の中で智者と呼ばれる者は、たいていは見た目を重厚にあつらえ、言葉を巧みに用い、学才があるようにふるまって、人の目をたぶらかす者に過ぎない。今の時代は文字に暗い者が多いから、表面を飾るだけの輩を、賢者だと思い込んでしまうことが多い。玉川も巧言令色をする手合いに過ぎなかったから、登用しなかったのだ」と答えました。
そして、「玉川は初めて会ったときに、私を称賛し、一方で諸将をけなし、取り入ろうとしてきた。さらに、自分を認めてもらおうと思い、自らの善行を盛んにひけらかしていた。このような者は仮に智者だとしても、主君におもねる悪臣であり、家を衰退させるから、登用するべきではない」とも付け加えます。
後に玉川は他の大名家に登用されるのですが、氏郷が見たとおり、主人に取り入って老臣を退け、忠実な者を妬んで追い落とそうとしたので、家勢が衰えていきました。
その大名は玉川を登用したことを後悔するようになり、やがて追い出しています。
この結果、氏郷の人を見る目は確かだったと、称賛を受けることになりました。
東北で一揆が発生する
こうして会津を発展させ、優良な家臣を増やしていったことで、蒲生氏の勢力は着実に増大していきました。
しかし間もなく、東北で大規模な一揆が発生し、氏郷は対応に追われることになります。
これは「葛西大崎一揆」という、秀吉に領地を没収され、不満を抱いていた葛西氏と大崎氏の残党が起こした反乱でした。
そして、事件の裏で糸を引いていたのが米沢の大名・伊達政宗であり、氏郷は一揆と政宗の双方を相手に、事件に対処することになります。
【氏郷と対立した伊達政宗】
氏郷と政宗が対立した理由
氏郷と政宗は当初から軋轢を抱えていたのですが、それは氏郷が会津の領主になっていたからでした。
会津は元々、蘆名氏という大名が治めていたのですが、これを政宗が侵略して奪い取っています。
しかしそれを秀吉に咎められ、会津を取り上げられました。秀吉は政宗が勢力を伸ばすことを好んでおらず、蘆名領への侵攻を、関白の名の下に禁じていたのです。
そして政宗が言うことをきかずに蘆名氏を滅ぼしてしまったため、代わって氏郷を配置し、東北の抑えとして用いることにしたのでした。
こういった経緯があったため、政宗は会津をもう一度手に入れたいと思い、氏郷を敵視するようになりました。
政宗は氏郷を葬ろうとして、暗殺を含め、様々な謀略をしかけて来ることになります。
葛西大崎一揆を焚きつけた理由
葛西大崎一揆を政宗が焚きつけたのは、彼らの旧領を自分のものにしようと企んだからでした。
葛西氏と大崎氏の旧領は合わせて30万石ほどで、木村吉清という武将が抜擢を受け、秀吉から支配を任されています。
しかし木村は、元は5千石の小身の武将であるに過ぎず、不満が高まっている地域の統治を行うには力不足でした。
政宗はこの状況を利用し、葛西・大崎氏の残党を密かに支援し、煽って反乱を起こさせたのです。
そして氏郷に討伐を行わせつつ、隙あらば暗殺しようと企んでいました。
そうして葛西・大崎領を手に入れ、あわよくば会津も奪取しよう、というのが政宗の陰謀でした。
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