蒲生氏郷 秀吉が怖れた名将の生涯と逸話

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秀吉とのやりとり

氏郷が会津におもむく際、秀吉は自分の袴を脱いで氏郷に渡し、氏郷の袴を渡すように求め、交換しました。

そして氏郷に「奥州へ行くことをどう思っている?」とたずねました。

氏郷は「家臣たちがことのほか、迷惑がっております」と正直に伝えます。

秀吉はこれを聞いて「そうであろうな」と笑って応じますが、すぐに真顔になりました。

そして「そなたを都の近くに配置するのは危険だ。だから奥州に遣わすのだ」と述べました。

氏郷の答えを聞いて、秀吉は氏郷が自分を畏れていないことを感じ取り、優秀だが油断ならない男だ、とみなしたのでしょう。

実際の所、秀吉は武勇に優れた者を京都から遠ざける傾向にありました。

明智光秀の領地は丹波たんば(京都北部)にあり、その環境を利用して京都の本能寺に宿泊した信長を殺害しました。

ゆえに、秀吉は謀反を警戒し、武勇に秀でた者はなるべく畿内に置かないようにしたかったのでしょう。

鶴ヶ城を築き、城下町を若松と名づける

氏郷は会津の黒川城を本拠としましたが、これに大規模な改築を施し、七層の天守を備えた立派な城に生まれ変わらせました。

そして城の名を「鶴ヶ城つるがじょう」と改めています。

これは蒲生氏の家紋である舞鶴にちなんだものだと言われています。

蒲生対い鶴

【蒲生家の家紋・蒲生対い鶴】

また、城下町の名も「若松」とし、これが会津若松の発祥となっています。

伊勢の領主時代に「松坂」という地名を作っていますが、氏郷は城下町に「松」の字を用いることを好んでいました。

そして松坂の時と同じく、旧領の商人たちを招いて商業活動を盛んにし、楽市楽座を実施しています。

また、工芸品の生産も奨励し、会津発展の基礎を作り上げました。

家臣を多く雇い入れる

氏郷は私欲が乏しい人物で、会津に大領を得ると、なるべく家臣たちに多くの領地を与えようとしました。

普通ならば1万石が妥当な者に対し、2万石、3万石と与えようとしたために、そのまま実行すると、領地が足りなくなってしまうことが判明しました。

そして氏郷自身の領地が少なくなりすぎ、軍役を果たせなくなってしまう、と重臣たちから指摘されます。

このため、氏郷はやむなく領地の配分を重臣たちに任せるのですが、この話が家中に広まると、家臣たちは氏郷の厚意をありがたく受け止め、忠誠心を高めていった、ということです。

実際にもらうのが1万石でも、氏郷は2万石、3万石に評価していた、と聞けば、心が奮い立つものなのでしょう。

氏郷は人の目利きにも優れており、これという士には禄を惜しまずに召し抱えていったため、蒲生氏に優秀な武将が集っていくことになりました。

知行も情も大事だと説く

氏郷は家臣にあてた書簡の中で、家臣を召し抱える際の心得を諭しています。

「まずは家中に情を深くし、それから知行ちぎょう(領地・給料)を与えるべきである。知行ばかりで情がなければ、家臣は主君に心服しない。しかし情ばかりで知行を与えなければ、また同じ事である。知行と情は車の両輪、鳥の両翼と心得よ」というのが氏郷の考えでした。

これが、なるべく家臣たちに知行をたくさん与えてやりたい、という気持ちにつながっていたのでしょう。

氏郷は自ら能を演じて家中の者に見せたり、頭巾をかぶって風呂をわかし、家臣たちを接待した、という話があるなど、気配りを忘れない人柄でもありました。
(当時はまだ湯をわかして入る風呂は珍しいもので、身分の高い人々の間でも、接待として用いられていました)

また、陣中で眠気を覚ますために博打を打つことを認めており、軍法の遵守には厳しかったものの、融通を利かせる性格でもありました。

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